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選択論。これからの人生に、悔いのない選択を

「あの時、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。」
「あの時、もっと良い選択肢があったんじゃないのか。」

僕たちは考える。

いつだって僕たちは、そんな風に過去の選択を悔やんだり、それに疑問を感じたりする。
それはすごく大事なことだ。

僕たちはそうすることで、次の選択をより良くすることができるし、過去の失敗を「経験値」として記憶することができる。


だが、あなたがそうやって過去の選択を悔やんだ時、最後に何が残っただろうか。もっと良い解決策が見つかっただろうか?

仮に見つかったとして、それは現在の自分の糧にはなれど、決してあなたの過去を変えることはない。
そんなことを考えても、僕たちの心に最後に残るのは、
堪え難い後悔と、冷たい虚無感だけだ。

僕は決して、過去を振り返るのはやめよう!
と、提案したいわけではない。

ただ、もし、今あなたが過去の選択に縛られているのならば、いかにそれが無意味なことであるかを知っておく必要がある。


人生は選択の連続だ

僕たちは、朝起きてから寝るまで、途方もない数の選択を迫られている。
朝起きた瞬間にあらゆる選択肢があなたの前に現れ、数秒単位での選択を迫ってくる。

朝食には、シリアルを食べるか、それともベーコンと卵を食べるか?
今日はどんな服を着て行こうか?
朝はどんなニュースを見てから出ようか?

外に出れば、それ以上に多くの選択が、道や学校、オフィスやカフェに転がっている。
僕たちはその数え切れないほどの選択に、晒され、打ちひしがれて生きるしかない。

なぜなら、選択することこそが生きるということであり、
あらゆる選択を放棄するということは、死という形をもって実現するほかないからだ。
人生は選択の連続で成り立っているからだ。

僕たちは、選んでいる。
ありとあらゆるものを。

そして大抵、僕たちの無意識のうちにその選択を行なっている。
全てを意識的に選択して生きたならば、僕たちの頭はたちまち限界を迎えてしまうだろう。


毎日、幾つもの選択をしているからといって、あなたが深く後悔するような重大な選択と、朝食をシリアルにするか、といった選択では明らかにその重要度が異なる。

シリアルを食べようが、一手間かけてベーコンと卵を調理しようが、どうでも良いことだ。
それが一体僕たちの人生に何をもたらすというのか?
それに対し、僕たちが後悔するような重大な選択は、その結果次第で僕たちの人生を大きく変え得る。

だからこそ、慎重に考えるべきだし、ベストな選択をするべきだ。

これには大いに賛成。
反論の余地はないのだが、
どのような選択も実はその重要度は同じで、結局のところそれを選択するとかそんなことは、「どうでも良い」と考えることはできないだろうか。


僕たちはいつだって無力だ

僕たちが縛られ、いつまでも後悔し続ける、過去の選択。
あの時、こうしていれば。
もっと良い選択肢があったはずなのに。

仮に、選択肢が2つあったとして、自分が選んだ1つの選択肢によって、僕たちがひどく後悔することになったとしよう。

では、あの時、もう一方の選択肢を選べば、僕たちは幸せになれたのだろうか?

仮に、思いつくことのできた選択肢が1つだけで、それ以外にもっと良い選択肢がいくつもあったかもしれない時。
その時選ばなかった無数の選択肢は、僕たちを幸せにしただろうか?

ここまで自分の意見を述べてきておいて、こんな結論に帰着することを先に謝っておきたい。

だが、これが事実。
結局のところ、「わからない」のだ。


正しい選択とは何か?

その時の選択が間違っていたのか、他の選択をすればどうなっていたのか、僕たちには分からない。
それが分かる超能力者でもいれば、話は別だが、僕たちにその真偽を確かめる術はない。

これから立ちはだかる選択についても、同じことが言える。
何も、分からない。
少しだけ、予想することはできるし、過去の経験から判断して最善の選択をすることはできるだろう。
だが、「最善」の選択が常に「最高」の選択だとは限らない。

僕たちは、せいぜい、その選択の先にある結末を憂いたり、期待をすることしかできないのだ。
僕たちにはその程度の力しかないのだから。

力の無い僕たちができるのは、「悔いのない選択」をすることだけだ。


それ以外、僕たちには何もできない。
無数の選択肢が目の前に現れたなら、
僕たちは、その中から、「悔いのない選択」するしかない。
理論や予測、そういったものを持ち出しても、結局のところ、その選択が正しいのかは分からない。

なら、僕たちは僕たちなりに、悔いのない選択を選ぶように努力しようじゃないか。
正しいか、正しくないかではなく、
後悔しない方を選ぼうじゃないか。
もちろん、その選択肢が本当に後悔しない選択肢かどうかは分からない。
選んだ後で、やっぱり後悔するかもしれない。

でも、僕たちはこれまでに「正しい」と思う選択肢を選んで「後悔」してきたんじゃないだろうか。

「正しい」かどうかを今の僕たちが判断することなど、できないのだ。
でも、「後悔しない」かどうかを判断することならできる。


僕たちが今直面している選択の数々は、コインを投げて表裏を当てるような、それくらい、どちらでも良いような選択なのかもしれない。

どちらを選んでも、確率は50%。
半分は幸せで、半分は不幸。
もしくは、両方とも幸せか、それとも...。
僕たちには分からない。
誰にも分からない。

これから先、僕たちはいくつもの選択を迫られるだろう。
でも、何が正しいか、僕たちには分からない。

だから、せいぜい、僕らは未来の僕らが後悔しないように、

「悔いのない選択」をしようじゃないか。

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