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デザインが"そうぞう力"に蓋をする / Featured Projects 2024 Day0-1レポ

5月24日から26日まで開催されていた「Featured Projects 2024」を振り返りながら印象的だったものや、終わってからも考え続けているものについて書いていきます。

本記事はOpening Day・Day1について書いていきます。

全てのセッションに触れたいのは山々ですが、オフレコ感強いトークセッションだったのでセッション内容の振り返りというよりは、セッションの中で気になった言葉をピックアップして自分の考えを展開します。

人の言葉に触れることで急に思考が進み始める感覚をそのまま言葉にすることを心がけたので、読みにくかったら読みにくかったらゴメンナサイ。



そういえば、デザイン思考ってなんだ?


「デザイン思考の"その後"を考える」のセッションではデザイン思考は今後どうなっていくのか、なくなってしまうのか、そもそもデザイン思考とはなんだったのかということについて触れていました。

ついに始まった〜とワクワクしてました

デザイン思考という言葉

セッションの中でデザイン思考について色々語られている中で、ふと「そう言えば、デザイン思考ってなんだ?」と自分がデザイン思考についてほとんど知らないことに気づきました。

「別に知らないで良い」という考えから触れてこなかったのでしょうか、このセッションを聞く中でデザイン思考という言葉に対する自分の否定的な感情が明らかになりました。

現代のパッケージ化されたデザイン思考には興味がないものの、パッケージ化されて普遍化された概念が進化していくのか、いづれ従来のデザイン思考も「古い」と揶揄されてしまうのかには興味があります。

いつしか亭主関白が時代遅れと言われるようになった世の中のように、パッケージ化されて固定されてしまったデザイン思考は時代遅れになるのでしょう。

その時、自分たちは何を思考しているべきなのか。

自分の思考をアーカイブする必要性

パッケージ化された思考法ばかり見ていても、それはいつか(すでに)時代遅れになっているものだったり、結局は自分が思考しないための逃げ道になってしまったりします。

守破離という言葉があるように、最初に何かの思考法を模倣してみるというのは何も間違ったことではないのですが、破と離を忘れてはいけません。

思考という無意識的で、言葉にするのが難しいものだからこそ自分の思考を言語化し、アーカイブすることで自分の思考に自覚的であることには大きな価値があると思います。

そして、ただの知識としての思考にはそこまでの価値がないと思います。

パッケージ化するということはわかりやすくするということで、わかりやすくしたものの大抵は正確性に欠けます。

抽象的で理解が難しかったり、感覚的で実践を繰り返さないと掴めないものを置いてきぼりにした結果「わかりやすい思考法」という商品ができあがるわけですね。

とにかく若いうちから言語化していくことでしか思考というのは身につかないのだと、その考えがより確かなものになりました。


デザインがそうぞう力に蓋をする


「人生の折り返し地点。改めて向き合う"そうぞう"の旅」のセッションで祖父江さんがいっていたこと。

「デザイナーは仕事だけしてたらダメだよね」(完全一致かはわからない)

ちょうど最近同じようなことを思っていて、「仕事だけしてたら仕事がうまくいかない」という考えが自分の中にありました。

独特の雰囲気…

つくることは特別

また「デザインの潮流から考える、いまデザイナーが取り組む論点」ではデザイナーが特別なのは「つくれる」からだというような話もありました。

学校のようにみんなが同じ授業を受ける環境では強制的に何かをつくる他者を見ていましたが、大学を卒業してからはそのような光景を見ることは少なくなりました。

つくる人が集まる場所はあるけど、集まらないとつくる人は見つからない。

単純ですが、他者に見られるものをつくることができるというのは圧倒的に凄いことなのではないか。

仕事だけでつくっていては足りない

最近は仕事だけでは自分の「つくりたい欲」が満たせないというか、仕事とは別腹の体力が存在している気がします。

気がする、というより初めて他者から「仕事だけしてたらダメ」と言うのを聞いて急に自覚的になったというのが正確かもしれません。

仕事だけしていては仕事がうまくいかないと思うようになったのは、自分のつくりたい欲をぶつけるには仕事があまりにも小さすぎるというか、制約が多すぎるからなんだと思います。

前職でもいろんな創作活動を停止して「今は仕事に全振りしよう」と意気込んでいた時期がありましたが、そういう時ほど考えはすぐに煮詰まるし、すぐに疲れて嫌になっていました。

デザインに埋もれた"そうぞう力"

仕事以外で何かをつくっていると、その時間は自分の括りがデザイナーではなくなっている感覚があります。

私は大学からデザインを学び始め、それまではデザインでも、美術でもなくとにかく図工が大好きな男の子でした。

今になって思うのは、デザインを学ぶことによって一部のものづくりに対する気持ちや楽しさに蓋をしてしまっていたのかもしれません。

心の蓋を取ってくれそう

学んだもの、デザインの多くは論理的であることを求められますが、図工なんて何も考えなくて良かったわけです。

自分が作りたいものを作って、自分が満足して他の人が驚いたりしてしてくれたらそれ以上は何も必要ないのです。

デザインを学んで、デザイナーになって思うのはデザインはいろいろ求められすぎているということ。

言葉にして説明することを求められますし、それは金になるのかといつまでも追及されます。

図工で作った作品なんてタイトルと工夫したところを書いておけばそれで十分なのに。

いつしか「説明できないものは作らない」という考えが染みつき、楽しいものづくりではなくなってきているところがありました。

今は1日8時間はデザイナーで、それ以外はイラストレーターになったり作家になったり、はたまた図工の授業を受ける学生になった気分で生きています。

"そうぞう力"に蓋をしないよう、デザインを目的にしないために。


わからないことの価値


今回は設計をせず、考えながら書いてみました。

最近、人が読むものを書くときに「オチ」をつけないといけないと感じ、正確で本質的な内容ではなくなってしまうということに悩んでいます。

それは結局どういうことなのか、どうしたら良いんだとハッキリさせることは、ありのまま正確に物事を伝えることとは相容れない。

「わからないことを許容する知恵」という話はとてもメタ的で面白い

わかりやすくしようとする

最近よく映画館に行くようになったのですが、映画を見終わってすぐにハッピーエンドなのかバッドエンドなのかを決めようとする人があまりにも多いことに気づきました。

自分が理解しやすく、もやもやしないようにするために白黒つけるのは自然な行為だと思います。現にそういった考察をしないように意識すると頭では受け止めきれなくなってしまうので。

しかし、例えば白と言い切ってしまうことで、少し黒い部分だとか、ほんのちょっと赤い部分だったりを切り捨ててしまうことになります。

記事を書くときには白と言い切るのが書きやすいのですが、本質的に価値があるのは白という結果ではなく、そこには本当はどんな色が混ざっているのかというプロセスです。

わかりにくいまま書いてみる

自分で作った結論から話を組み立てるのではなく、考えたことや経験したことをできる限りそのまま、「わかりにくい」まま書くことで価値のあるプロセスを発見できないかと試みてみました。

近いうちにDay2のレポートも投稿するので、そちらも読んでいただけると幸いです。


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