身体を売る

 端的に言えば、たった今、身体を売ってきた。二時間で五千円だった。
 包み隠さず言えば、私はお金がない学生なので稼がないといけない。 
 有り体に言えば、私はこれまでも身体を売って、数万円以上稼いできた。
 語弊を恐れずに言えば、ある大学で、そんなバイトを募集していた。
 具体的に言えば、実験の被験者になるバイトに参加して、私は報酬を得ている。いわゆる「治験バイト」である。
 たとえて言えば、今の私はモルモット。
 仲間内のスラングで言えば、「ちょっと、今からモルモットになってくるわぁ」が「ちょっと、今からバイトに行ってくるぁ」である。
 率直に言えば、モルモットになることには、些かの苦痛が伴う。
 ある治験のバイトを例に言えば、『においと脳のはたらきを調べる実験』というものがある――。

              * 
 そこではまずモルモットは電波が遮断された何もない小さな部屋に通される。小部屋には、鼠に引かれるような寂寥感が漂う。
 次いで、一台のパソコンを前に、椅子に座らされる。頭には水泳帽に大量の電気コードを取り付けたような脳波測定器を被らされる。さながらメデゥーサの頭だ。脳波測定器は椅子の背もたれに固定されるため、モルモットは椅子に座ると、ほとんど身動きがとれなくなる。耳には耳栓が嵌められ、そこからは「ざーっ」という壊れたアナログテレビのような雑音が、延々と聴こえる。最後にモルモットは、鼻に管を入れられる。猫の前の鼠よろしく些かの緊張と不安を感じる。
 準備が整うと、隣に立つ実験責任者の学生が「それでは一回目のセッションをはじめます」と愛想よく言い残し、部屋を出て行く。
 突然、目の前のパソコン画面が切り替わり、黒い背景に白字で「+」という文字が浮かび上がる。次いで「+」が「A」に変わる。
 その瞬間、鼻にあてられたチューブからとんでもなく臭いガスが噴射される。そこでのたうち回ってはいけない。なぜなら私はモルモットなのだから。窮鼠猫を嚙む余地なし。
 ガスの噴射後、パソコン画面にはこんな質問が表示される。
「不快ですか?」
 モルモットは皮肉にもサイドテーブルに置かれたマウスを操作し、パソコンの画面上で、その質問に答える。「とても不快である」の欄にチェック。
 再びパソコン画面には「+」が表示され、それはほどなくして「B」に変わる。と、同時にBのにおいのガスが噴射される。
 それから、訊かれる。
「不快ですか?」 
 ここまでくると、鼠輩のモルモットも「自分はただの鼠ではない」とばかりに、おかしいと気づく。
 たったいまモルモットは、電波も遮断された小部屋に閉じ込められ、椅子に固定された上に、見ず知らずの装置を身体中につけられた状態で、激臭のするガスを嗅がされている。その上で訊かれることが、
「不快ですか?」
 ばかやろう、である。
 しかしガス噴射は終わらない。
「不快ですか?」
 ガスは噴射される。
「不快ですか?」
 ガス、噴射。
「不快ですか?」
 ガス。不快ですか? ガス。不快ですか? ガス。不快ですか? ガス。不快ですか?…………逃げられない。
 私は袋の鼠である。
              *

 あえて言えば、こうした実験でも時々イイことがある。実験内容によっては、ガスのにおいをかぐ前に、実験者から「それではこれをお腹いっぱいになるまで食べてください」とお菓子を与えられる。間違えてはいけない。これは餌付けではない。満腹時と空腹時でにおいを嗅いだ時に、脳にどのような違いがあるのかを見ているらしい。
 ここで真実を言えば、私はここまでやや大袈裟に治験バイトについて書いてきた。いずれの実験も適切な倫理規定に基づき、被験者の健康と意思を最優先にしている。試しにネットで「モルモット 飼い方」などと検索してみると、時々ゲージを覗いてやることの必要性や餌を与える際には名前を呼んであげることの重要性などが説かれている。じっさいに先の実験でも、ガス噴射が一区切りするごとに、実験者の学生が小部屋に入ってきて様子を見に来てくれる。さらに「メコン小川さん、おつかれさまです」と名前を呼びながら、お菓子や水もくれる。
 平たく言えば、私はもう大学に飼いならされているに違いない。
 治験バイトについて悪く言えば、少しハードな一面もある。
 しかし良く言えば、時給も高く、お菓子も食べられる。
 とにかく明るく言えば、非日常体験ができる。
 強いて言えば、お金に困った人なら試してみても良いかもしれない。しかし――
 ああ言えば、こう言うモルモットには向かないバイトではある。

 あれ、僕は何がしたかったんだっけ?
 そうだ、メコン川で水切りがしたかったんだ!

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