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茶碗蒸しを求めて、300里~長崎の名店へ~

好きな食べ物を聞かれると、決まって「茶碗蒸し」と答える。

すると、5割の人が「珍しいね」と言い、3割の人が「ふーん、そうなんだ」とあまり興味なさげに呟く。2割の人は「個性だそうとして、尖った答えしてるじゃねえよ」と言わんばかりの疑念の眼差しを向けてくる。

悲しいかな、きっと茶碗蒸し支持率は、若者の投票率よりずっとずっと低い。


そのような社会情勢の中、逆に茶碗蒸しラバーであることの使命感に駆られた。だから、友人との福岡旅行に合わせ、九州一人旅を思い立った時、「九州 茶碗蒸し」でググった。長崎県の「吉宗」という店が引っかかった。

茶碗蒸しが、私を呼んでいた。

行先が決まった。

1個700円の茶碗蒸しを食べて

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オーソドックスな「御一人前」を注文。


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茶碗蒸しは最強であり、すべての食べ物が茶碗蒸しにひれ伏すのは世の常であるから、画像左のおめでたそうなやつに関しては、感想を割愛する。

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それは、まさに恍惚のひと時だった。

茶碗の蓋をおそるおそる開けると、一般的な茶碗蒸しの2倍はあろうかという、堂々とした"本体"がみえる。黄色くもあり、肌色っぽくもある。それはもう、「茶碗蒸し色」としか言い表せない。


丁寧にスプーンですくい、舌の上に置く。その瞬間、強烈な魚介ダシの風味が鼻を抜ける。カツオをはじめとする複数の魚介エキスが、これでもかというほど溶けこんでいた。

弾力がなく、舌で容易につぶれる。形を失った茶碗蒸しは、「ダシ」そのものに姿を変える。口全体に「ダシ」が広がると、感じる旨味が2倍、3倍へと膨れ上がる。

それはもう、"旨味の爆弾"だった。


しかしながら、一口の茶碗蒸しは儚い。二口目で具を食べるのが早すぎるということは、宇宙の絶対真理であるから、一口目で見えてきたキノコの横をえぐるようにして、すくう。

口に入れると、脳天が雷に打たれたような衝撃が走る。

「味が....違う。」


そう、キノコに面した部分は、キノコのダシがふんだんに溶けだしており、より複合的で味わい深い、キノコベースの茶碗蒸しになっているのである。

この現象は、すべての茶碗蒸しに顕著にみられるわけではない。良質な材料を贅沢に使ってこその、「変化」である。


キノコを食べたい。キノコを食べたい。私の洗練された脳の命令系統に、強烈な欲求が割り込んでくる。まだ、キノコを食べるのは早い。そう分かっていながらも、私の大脳はキノコの虜になっていた。

気づけば、キノコを噛みしめ、圧倒的な食感のアクセントを楽しんでいた。


そこからは、心躍る出逢いと、悲しい別れの繰り返しだった。

銀杏は中身が密に詰まっており、かけがえのない苦味をもたらした。気づけば、いなくなっていた。

えびは、赤く色づいていた。茶碗蒸しの中を泳いでいるかのような、自然さと美しさを醸し出していた。気づけば、いなくなっていた。

たけのこのコリコリとした食感はアクセントとなり、春の訪れを予感させるような味わいが広がった。気づけば、いなくなっていた。


鶏肉、きくらげ、なんかの魚。それぞれがそれぞれの良さを発揮し、総体としての茶碗蒸しを引き立てていた。

十人十色や多様性という言葉は、茶碗蒸しのためにあるのかもしれない。


そして、それらの個性あふれる食材たちが、「茶碗蒸し」によって媒介され、有機的につながっていた。いや、あるいは彼らがそれぞれのダシを出し合っているからこそ、「茶碗蒸し」として成立しているのかもしれない。

どちらにせよ、茶碗蒸しは、一にして全。全にして一。まるで一人の人間と社会との関係性を象徴しているかのようだった。(なにいってんだ)

茶碗蒸しから感じる、日本の美意識

吉宗の茶碗蒸しが、私の茶碗蒸し人生の中で最も感動的で示唆的だった。

以下は吉宗の茶碗蒸しを通じて感じた、茶碗蒸しの考察である。

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「茶碗蒸し」には、日本的な価値観が詰まっている。


まず、名前だ。「茶碗を蒸す」という言葉からは、漠然とした調理方法が分かるのみで、味・素材・調味料等々がまったくわからない。

さらに、当初は蓋が閉じられ、せいぜい三つ葉が飾られている程度の見た目は、お世辞にも華やかとはいえない。しかし、それは逆に言うと無駄な装飾がないということであり、味の豊かさを追求した結果ともいえる。

このような特徴の中に、日本が長年美徳としてきた、繊細さと奥ゆかしさを感じる。

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また、1種類の食材が大量に入っているのではなく、多様な食材が1個ずつ入っていることが多い。(店にもよるが)

これは、人生における出会いと別れ、そしてそれらを大切に噛みしめようとする「一期一会」の精神が読み取れる。

そして、一度食べてしまったら二度と味わえないという不可逆性、刹那の味わいへの集約は、素材への愛おしさを最大限まで引き上げさせる。


食材との出会いと別れ。人生の物語が、1椀1椀に込められている。

茶碗蒸し、尊い。茶碗蒸し、万歳。




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