パパのトリセツ:その2「幸せとは何か」
また、どえらいテーマを選んでしまった。
この間は、「人生について」話したね。
パパにとって人生とは、「人生は幸せに生きるためにある」「人生は幸せであるべき」ものだ。
だから、なるべく幸せに近づく選択をするし、遠ざかる選択は避けるようにしている。
君たちへのアドバイスや助言も同じ基準でしている。
叱ったりするのも、「幸せから遠ざかろうとしている」あるいは「不幸になりそうだ」という場合がほとんどだ。
ところで、昔はパパが仕事をしている時に、騒いだりすると怒ったが、今はそんなことはほとんどないと思う。
あとで話すけれど、当時は経済的にマジでやばい状況だった。だから、家で仕事をせざるを得なかったんだね。部屋も他になかったし。
仕事をしなければ幸せから遠ざかるのは明らかだったし、場所も選べなかった。だから、君たちはパパは騒いだり、話しかけると怒る人だと思ったのではないだろうか。
まだ、小さかった君たちにそんな想いを抱かせてしまったことは、とても申し訳なく思っているし、パパにとってはとても悲しい思い出だ。
経済的な事情もあって(というか、それが99%だったのだが)、当時は仕事をして稼ぎを増やすことが、幸せにつながっていると信じていた。
でも、ここで大きな疑問が出てくる。
そもそも「幸せ」とは何なのだろうか?
これはかなりの難題だ。
「幸せ」の定義
幸せが人生の基準だとするなら、幸せが何かを定義しなければいけない。
「幸せ」が何かが決まらなければ、結局、どこに基準があるのかわからなくなってしまう。
ところが、一般論としての「幸せ」。
つまり、皆んながもれなく納得できる「幸せ」というものを定義するのはとても難しい。
その理由は、人生と同じだ。
すべての人が、それぞれ別の前提条件を持っているからだ。
その人が幸せかどうかは、その人自身にしかわからない。
もっというと、その人自身でも今が幸せなのかが判断がつかないこともある。
「今思えば、あの頃は幸せだったなあ」なんてことをボヤいている大人は少なくない。
君たちはどうだろうか?
今、幸せだと思うかな?
「そんなのわからない」と思っているんじゃないかと、パパは想像している。
それはそうなんだ。結局、幸せというのは自分が経験してきた、物事や感情を自分なりに比較することで、何となく決まってくるものだからね。
つまり、幸せは何かを持っているから、何かを成し遂げたから、必ず幸せになれる!というような単純でわかりやすいものではない。というのが、パパの考えだ。
ちなみに、パパが幸せか?といえば、幸せだと言い切ることができる。
もちろん、悩み事がないわけではないし、大変なことも、面倒なことも、考えるだけで気持ちが重くなるような嫌な作業だってある。経理の作業は気が狂いそうになるくらい苦手だ。
たとえば、パパは人見知りだから、新規のお客さんに会うのは毎回しんどい。
昔よりも楽になったとはいえ、大変なことはまだいっぱいある。
それでも、やっぱり幸せだと思う。
何が幸せか?は過去の経験との比較で決まる
あまり話したことはないけれど、パパも死んだ方がマシだと思うくらい辛い時期があった。自分から電車に飛び込むのは嫌だけど、誰かが車ではねてくれたら楽になるんじゃないか?と思うくらい時期が何年もあったんだ。
その時期は、どんなに努力しても報われなかった。どれだけ働いても、君たちを動物園に連れて行ってあげる程度のお金も稼げなかったんだ。想像できるだろうか?
なんとか動物園に行くことができても、たった1,000円の白いフクロウのぬいぐるみを買うためにものすごく迷わなければならなかった。
死ぬほど働いているのに、電車に乗るお金がなかったこともある。打合せに行くために何時間も歩いたこともあるんだよ。とんでもない距離を自転車で移動したりした。
でも、泣き言は言っていられない。あの手この手で仕事を見つけて、実績を積んで、そのうちに、お客さんからそれなりの報酬を払ってもらえるようになった。
でも、その後も、一筋縄ではいかなかった。
飛び抜けた成果を出したのにクビになったこともある。何年もかけて作った売れる仕組みを手放さなければいけないこともあった。実績を横取りされたこともある。信じていた人に裏切られたこともあった。約束したお金を払ってもらえなかった事もある。またある時には、収入が一瞬でゼロになって、不安で目の前が真っ暗になった。それはそれは辛かった。
こんなに辛いことばかりなら、人生なんて早く終わってほしいと願った事もある。それも一度や二度ではない。何年もの間、毎日だ。
映画『トゥルーマン・ショー』のように、パパが知らないだけで、パパが悩んだり苦しんだりする様子を誰かが24時間体制で撮影していてリアリティーショーとして放映しているのではないか?その様子を、誰かがテレビの前でポップコーンを食べながら観ていて、エンターテインメントととして楽しんだり、Twitterに言いたい放題書きまくっているのではないか?
そんなことを、結構真剣に考えた事もある。
Twitterが出てくるということは、そんなふうにパパが感じていたのはそれほど昔のことではないということだ。
「もうやめてくれ。」
「ここから出してくれ。」
口に出したことはないが、心の中ではずっとそんなことを叫んでいた。
でも、そんなしんどい時期でも、君たちやママを残して逃げ出すわけにはいかないと思っていた。だから、どんなにキツくても何とか乗り切ることができた。
パパ一人だったら、とっくの昔に何もかも投げ出していたと思う。君たちやママがいなかったら乗り切れなかっただろう。
だから、忘れないでほしい、君たちやママは「ただいるだけ」でかけがえのない価値があるんだ。少なくともパパにとっては。
たとえどんなに辛くても、「死にたい」なんて口が裂けても言わないでくれ。できることなら、何がどのように辛いのかを話して欲しい。パパに言いにくいことなら、ママに話し欲しい。
とにかく、そんな経験をしてきたせいか、パパはごく普通の日常がとても貴重で、とても幸せだと思う。
君たちがそれぞれ成長して、何か1つでもできるようになったり、少しでも向上したり、好きなことを見つけたり、興味を持ったり、美味しいものを食べて喜んだり、きれいな景色を見て感動したり、そういう姿を眺めていられることは、幸せなことなんだ。
君たちが、悩んだり、躓いたりしたとしても、とりあえず毎朝目を覚まして、くれれば幸せなんだ。
まあ、彼氏やフィアンセを連れてきたら、イラっとするかもしれないが、笑
それはそれで幸せなことだと思う。
繰り返し言っているが、幸せの定義は人によって違う。
だから、人によっては、パパが幸せを感じている穏やかな日常がつまらないと感じるかもしれない。
「何をそんなつまらないことを・・・」という感じかもしれないね。
でも、構うものか!
パパの幸せはパパのものだ。
誰かに共感してもらう必要なんてない。
君たちの幸せは君たちが気づくもの
さて、ここまではパパの幸せの話をした。
では、君たちにとっての幸せとは何だろうか?
さっきも話した通り、今ははっきりとはわからないと思う。
それは比較対象になる経験が少ないからだ。
時間と空間と機会が揃わないと、自分で経験をすることはできない。
仕方がないから、他人の経験を観察して考えることにしよう。
幸せに決まった条件はない
「◯◯がなければ幸せになれない」
「××があることが幸せだ」
というような、はっきりした基準があれば、さぞかし幸せについて考えるのは簡単だろうと思う。
でも、残念ながら、そういう分かりやすくて、誰にでも受け入れられる幸せの基準はないようだ。
例えば、世間からすれば、大成功している有名人がいるとする。そんな有名人がボランティアを始めた例を君たちも見たことがあるだろう。
みんなに尊敬され、チヤホヤされて、もちろんお金持ちで、美しかったり、格好良かったり、歌が上手かったり、誰もが認めてくれる長所があって、友達や恋人も誰もが羨むような有名人。
そんな人が欲しがるものをみんな持っているような有名人が、なぜボランティアを始めたり、寄付をしたりし始めるのだろうか?
経済的な必要からではなさそうだ。
彼らは普段、一般人が一生かかって稼ぐようなギャラをもらっている。高額のギャラがもらえなければ、指一本うごさない。ニコリともしない。(言い方に棘があるのは、パパの嫉妬心のせいだろう。ちょっと羨まし所はあるよね)
そんな人たちが、なぜ何の見返りも得られないボランティア活動をしたり、多額の寄付をしたりするのだろうか?
一方で、これはパパの経験ではないのだけれど、東南アジアで商売をしている知人がこんなことを言っていた。
「ここに住んでいる人たちは、日本人よりもはるかに貧しくて食べるものにも困ることがあるのだけれど、日本人よりも幸せそうに見える」
この知人はある国の大都市の端っこにあるスラム街を実際に見たそうだ。そこで幸せそうな人たちと出会った。
さて、なぜ貧しくても幸せなのだろう?
とんでもなく豊かな人が奉仕をしようとする一方で、貧しい人たちが幸せに暮らしている。不思議だよね。
なぜ、こんなことが起きるのか?
想像するに「社会的成功や経済的豊かさが、幸せに必ず必要な条件ではない」からではないだろうか。
少なくとも、
「社会的に成功していれば、必ず幸せである」
あるいは、
「経済的に豊かであれば、必ず幸せである」と言い切ることはできなそうだ。
同じように、恋人がいるのに不幸な人がいる一方で、独り身でもこの上なく幸せそうな人もいる。
社会的成功を成し遂げたのに苦悩の末に自ら命を絶つ人がいる一方で、経済的にも社会的にも最底辺と言えるようなところにいても、日々を楽しく幸せに生きている人もいる。
なぜだろう?
どうやら、自分の外側の条件が、幸せかどうかを決めるとは限らないみたいだ。
多分、幸せは自分の内側の状態なのだと思う。
つまり、君たちが自分の心の中に見つけるものなんだ。
そして、何を幸せと感じるかは、その人がそれまでしてきた経験や考え方によって変わる。
だから、酸いも甘いも、楽しいことも、きつい事も、色々経験するといい。
失敗してもいい。回り道をしてもいい。たくさん学び、考えてみてほしい。
そうやって、試行錯誤するうちに、君たちそれぞれにとっての幸せに気づく時が来るだろう。
その時がいつ来るかはわからない。
パパが気がついたのは、ごく最近だ。
頭が悪いから、ずいぶん時間がかかってしまった。
だから、君たちが自分の幸せに気が付くのに時間がかかったとしても、気にすることはない。自分のペースで見つければいい。一時的にどんなに辛くても、幸せは必ず見つかるのだと知っておいて欲しい。
どうやって、幸せを見つけるのか?は君たち次第だ。
そういう見方をすると人生は壮大な宝探しだ。
宝は必ずある。
大抵はすぐ近くに。
ただし、宝探しには
1つだけ守ってほしいルールがある。
宝探しのルール
絶対に、パパやママより先に死なないこと。
このルールだけは絶対だ。
これだけは破ることは許さない。
それ以外は、君たちの自由にしていい。
君たちの人生は君たちのものだ。
人生を宝探しを楽しみなさい。
宝探しの注意事項
大事なことを伝え忘れていた、宝探しには危険な側面もあるんだ。
君たちはとても素直だ。
それはとても素敵なことだと思う。
でも、同時に宝探しの旅ではそれが危険な場面もある。
どんな長所や美点も短所や欠点と紙一重だ。
だから、このことも心に留めておいて欲しい。
罠(わな)と錯覚の話
しつこいようだけど、幸せは君たちの心の中の出来事だ。
そして、幸せは見たり触ったりすることはできない。自分の中に見出して、感じるものだ。
つまり、他人が君の幸せについて評価をすることはできない。
外からはわからない。
第一、君たち自身が自分にとっての幸せとは何なのか?を探っている状態だよね。それなのに、なぜ他人が君たちが幸せかどうか?あるいは、それが大きいか小さいか、正しいか間違っているか、を判定できるのだろうか?
できるわけがない。
でも、君たちが宝探しをしていると、自信満々に「宝のありかを教えてあげる」と言って近づいてくる人に出会うだろう。
そういう人たちは、君たちの心が弱っている時に限って近づいてくる。
最初は君たちの話に共感して親身になって聞いてくれるかもしれない、しかし、そのうち君たちのある行動を褒め、他の行動にはガッカリしたようなリアクションをするようになる。
そして、だんだんと君たちが相手の望む行動をするように仕向けていくんだ。
きっと君たちは褒められたら嬉しい気持ちになるはずだ。逆に、ガッカリされれば悲しくなるだろう。
嬉しい気持ちは「幸せ」に似ている。
悲しい気持ちは「不幸」に似ている。
だから、幸せを基準に判断をしていると、その場で感じた「嬉しい」気持ちを「幸せ」に近づいていると勘違いすることがある。
これは「幸せ」や「不幸」の錯覚を利用した罠だ。
「答え」教えようとする人たちには要注意
不思議なことに、世の中には人生や幸福、あるいは死後の世界というような回答不可能な問題の「答えを持っている」と主張する人たちが沢山いる。
人生を宝探しに例えるなら「他からのありかを教えてあげる」という人たちだね。
さっき話したように嬉しい気持ちは「幸せ」に、悲しい気持ちは「不幸」に似る。それを利用するのが、「宝のありかを教えてあげる」という人たちだ。
どう利用するのだろう?
君たちの嬉しい気持ちや悲しい気持ちを利用して、行動を操ろうとするんだね。
例えば、彼ら・彼女らにとって都合の良い考えに賛同したり、利益になる行動をすると、その人たちは君たちのことをそれはそれは褒めてくれる。
逆に、都合の悪い考えを語ったり、不利益になる行動をすると、ガッカリして見せたり、非難したりする。
人は誰だって、褒められれば嬉しい。逆に、ガッカリされたり、非難されれば悲しい。
だから、できるだけ嬉しいと思える結果が待ち受けている行動を選択しようとする。そして、嬉しい気持ちは「幸せ」によく似ている。
君たちを利用しようとする人たちは、自分達の利益のために君たちを嬉しくさせたり、悲しくさせたりして、君たちの考えや行動を支配しようとする。
この方法は、君たちに命令して何かをさせたり、ピストルや鞭で脅して何かをさせるよりもかなり効率が良い。
実際、歴史を振り返ると、多くの権力者や宗教が、この方法を使って人びとを都合よく操ってきたんだ。
例えば、君たちも『戦争は女の顔をしていない』という本を読んだと思う。
その本の中に、狙撃兵の話が出てくるよね。彼女は、第二次世界大戦中に、たくさんのドイツの兵隊や将校を狙撃して殺した。
その結果、何度も勲章をもらった。つまり褒められたわけだ。その時は、おそらく嬉しかったのではないか?と思う。たくさんの賞賛を受けただろう。
でも、それは彼女の幸せにつながっただろうか?
残念ながらつながらなかったんだ。
彼女にとっては、思い出したくない過去になった。
彼女は自分が頭や心臓を撃ち抜いた、ドイツ人に顔を忘れることができなかった。
たくさんの人を殺した罪の意識に苦しめられ続けたんだ。
良いかな?
褒められる嬉しさはその場限りのものであることが多い。
そして、幸せに似ているが、幸せそのものではない。
その場の嬉しさを求めるあまり、幸せから遠ざかってしまう選択というものは人生にはいくつもあるんだ。
もちろん、戦争はとても特殊な環境だ。
特殊な環境の中で、普通の価値判断をするのは難しい。
ましてや、第二次世界大戦はソ連(今は、ロシアとその周辺の国々に別れている)にとって、ドイツから国を守るための戦いだった。だから、どうしても戦わなければいけない正当な理由があった。
でも、今伝えたかったのはそこじゃあない。
君たち自身の幸せとは関係なしに、他人が自分達の目的のために嬉しい気持ちや悲しい気持ちを利用して操ろうとすることがあるってことだ。
こういう罠はいろんなところにある。
詐欺師グループだってお互いに褒めあっている
パパにはそういう知り合いがいないから、詳しいことはわからないけれど、例えばオレオレ詐欺をしている犯罪者たちも上手に被害者を騙して、お金をせしめた仲間を褒めたりしているんじゃないだろうか?
でも、それって犯罪だし、悲しむ人が生まれる悪いことだよね。
なぜ、褒められるのか?犯行グループにとって都合がいい行動だからだ。
きっと、褒められた人は嬉しいじゃないかなと思う。
他にも、仲間や友達のグループ、会社、宗教、地域コミュニティ、などなど、いろいろなところで「人を操る」ために、「褒め」が使われている。
仲間や友達のグループ、会社、宗教、地域コミュニティには良い側面もある。
例えば、誰だって、仲間や友達が欲しいものだ。
パパは人付き合いが苦手だけれど、それでも何人か一生の友といえる人達がいる。
パパがどれだけ人見知りで、初めての人にあったり、人前で話すためにたくさんの心の準備が必要で、たくさんのエネルギーを使わなければいけないか。ということは、君たちも何となくわかるだろう。
つまり、人付き合いはとても苦手だ。
色んな人に会いたいとは思わないし、何人かの親しい人たちや君たちやママといられれば結構満足だ。
しかし、そんなパパですら、友だちがいる。
そのことからも、人間にとって仲間や友達が欠かせないことがよくわかるだろう。
問題は、君たちが一緒にいるときに、仲間や友だちが「悪いこと」をはじめて、「悪いこと」をできた人を褒め、できなかったり、しなかった人を「弱虫」「いくじなし」というように見下したりし始めたときだ。
「悪いこと」を止めれば、「裏切り者」と言われて、仲間はずれにされるかもしれない。
こんなとき、「褒められる」誘惑に抵抗することができるだろうか?
「見下される」辛さや怖さに抵抗できるだろうか?
とても大変なことだということが想像できるだろう。
「大好き」という気持ちを利用する人もいる
他にも、こんな例がある。
ある官僚がいた。彼女は国の役所で働いていて、とても優秀な人だ。今よりも、国家公務員という職業は人気があったし、彼女が働いていた役所は中でも人気があったから、その仕事に就くのは大変なことだった。
あるとき、彼女に好きな人ができた。
相手は新聞記者で、その業界では有名な人だったんだ。
彼女は彼のことが大好きだったから、彼が喜んでくれると幸せだった。逆に、がっかりされるととても悲しかった。
彼は新聞記者だったから、彼女が仕事の話をすると興味深そうに聴いてくれた。彼女はとても重要な役所に勤めていてとても優秀だったから、まだ誰も知らないような重要な情報をたくさん知っていた。
そしてだから、彼女は彼が喜んでくれる話をいっぱいした。
そして、その内容を彼が新聞の記事にした。
彼は誰よりも早く重要な情報を新聞の記事にしたから、同僚や会社からとても評価をされて褒めそやされた。
しかし、そういう悪いことはなかなか続かない。
秘密を彼に漏らしたことがばれて、彼女は警察に捕まることになった。
当然、彼も同罪で捕まった。
国がまだ正式に発表していない重要な情報を許可なく人に話すことは、犯罪だからっだ。
もちろん、そんなことは彼女も知っていた。何しろとても優秀な人だ。
これはパパの想像だから、本当のところはわからないのだけれど、彼女の中で彼に喜んでもらうことのほうが重要に感じたのだと思う。
彼女は彼が大好きだった。
彼が喜んでくれれば彼女は嬉しかった。
そして、嬉しい気持ちは幸せに似ている。
でも、幸せそのものではない。
彼女は結局、大変な努力をして手に入れた役人としてのキャリア、社会的信用、家族の期待、収入、個人としての名誉などなど、多くのものを失うことになった。
そして、大好きだった彼も失った。
もともと、彼は奥さんや子どもがいて、彼女に近づいたのはまだ公になっていない秘密の情報が欲しかったからだったんだ。
ひどい話だけれど、これは本当にあった話だ。
彼女がその後、どうなったかを、パパは知らない。
これは極端な例だけれど、そうやって君たちの「大好き」という気持ちや「嬉しい」という気持ちを利用して操ろうとする人がいることを覚えておいて欲しい。
君たちが自分で見極めていくしかない
この先、君たちはたくさんの人に出会うだろう。
出会った人の中には、魅力的な人もいるはずだ。君たちが相手のことを大好きなることもあるかもしれない。本当なら、パパが相手のことを見極めてあげたい。でも、そんなことはおそらく不可能だ。
君たちが新しい人にであうときに、パパが一緒にいる可能性は殆どない。第一、パパが君たちの立場なら、絶対に嫌だ。放っておいて欲しいと思う。そう思うのはとても健全で自然なことだ。
だからこそ、その行動が自分の幸せにつながっているのか?を自分で冷静に見極められるようになって欲しい。そして、相手の顔色を伺わずに、NoというべきことにはNoと言える意思を持って欲しいんだ。
その場では、相手が悲しんだり、怒ったり、そっけない態度を取るのを見て、君たちは傷つくかもしれない。でも、長い目で見れば「間違っている」「それは悪いことだ」と思うような行動を取るほうが君たちを深く傷つける。
そもそも君たちのことが大好きで、心から大切に思っている人が君たちに悪いことをさせようとするだろうか?
パパは「絶対にそんなことはしないはずだ」と断言できる。
夢や成功、チャンスで君たちを操ろうとする人たち
「大好きな気持ち」以外にも、「夢を叶えたい」という気持ちや「成功したい」「チャンスが欲しい」という気持ちを利用とする人たちもいる。
夢が叶ったり、有名になったり、仕事で成功を収めることができれば、誰だって嬉しい。それ以前にチャンスさえあれば、、、と思っていればチャンスが掴めるだけで嬉しいかもしれない。
そういう「嬉しい」と引き換えに、君たちの人格や尊厳を傷つけるような取引を持ちかけるような人間が実際にいる。悲しいことだけれど、そういう事例は後をたたない。
最近は、映画監督や俳優がまだ有名になる前の若い女優に酷いことをしていたことが、大きなニュースになっていた。
君たちが社会に出れば、いや社会に出る前でさえ、そういうずるい人たちに出会う可能性がある。だから、そういうずるい人たち(大人に多いが、大人とも限らない)がいること、そして、そういう人たちにどう対処すればいいか?については考えたり、相談できる適切な相手を持っておいて欲しい。
もしかしたら、この件についてはママのほうが相談しやすいかもしれない。同性同士のほうが話しやすいことは結構多いと思う。
とても危険なことで、君たちに気をつけてほしいから、脅かすようなことをあえて話した。
もちろん、ちゃんとした大人もたくさんいる。ただし、人間は常に100%ちゃんとしているとは限らない。だから、悪い大人がいるような場所にはなるべく近づかないほうがいい。
そして、良い人でも状況によって内面にある「悪」が発動してしまうことがある。だから、危険を感じるような状況にならないように気をつけなさい。
残念なことだけれど、悪い大人やずるい大人をこの世から消し去ることはできない。
そして、ごく普通の、善良とさえ言える人間の中にさえ悪い面はある。
だから、そういう人間がいること、人間の中にそういう側面があることを理解した上で、君たちが慎重に考え、知恵を働かせて身を守る必要がある。
悩んだときには、君たちにとっての幸せにつながる選択をして欲しい。
そして、何が幸せ、どんな状態が幸せかは、君の心のなかに答えがある。
他の人が良いと言ったことでも、羨ましがってくれることでも、褒めてくれることでもなく、答えは君の心の中だけにあるんだ。
だから、自分の心の声をしっかり耳を澄ませなさい。
宗教と幸せの話
少し前の方で、パパの幸せの話をしたよね。
その中で、パパの幸せはパパのものだ。と、パパは言った。
でも、何が幸せか?幸せであるためにはどうあるべきか?という考えや掟を教えたがる人が世の中にはいっぱいいる。
たとえば宗教がそうだ。
宗教というのは、
決められた人間を超えた存在を信じていて、どのよう生きるべきかの指針がある。決まった方法で祈りを捧げたり、その存在を奉じるグループが定めたルールを守ったり、奉仕や寄付をすると、生きているうちにメリットがあったり、死んだあとに天国いける。
逆に、その宗教をを信じない人、指針に従わない人、ルールを激しく破った人、その存在を奉じるグループが敵とみなしたり異端(考え方が違う人)とみなした人は天国に行けないばかりか、地獄に直行する。
と、まあこんなことを主張している団体のことだ。
こういう団体は、だいたい世界中にある。
過激でヤバいものや穏やかで平和的なもの、新しいものも古いものも、唯一神と言われる1人の神様だけを信じる宗教やたくさんの神様を信じる宗教もある。
日本の場合は神道が一応宗教の一種かもしれない。
パパもママも神社が好きだから、ときどき神社に一緒に行くよね。
あれが神道だ。
日本の神道は実はさっき話した宗教の定義には当てはまらない。
たとえば、天国に行けるルールも地獄に直行するルールもないからね。そもそも天国や地獄の概念もないかもしれない。
歴史の本を何冊か読んだ結果、どうやら神道のルーツは素朴な祖先崇拝だったようだ。
自分の祖先やその土地を開いた先達に敬意を表して祀っていたらしい。
もっとも、定義と言っても、パパなりにの定義だからかなりいい加減だ。
詳しく知りたい場合は図書館で本を探してみるといい。
宗教についてどう考えるか?
これは難しい問題だ。でも、宗教とはな何かを考えることが、パパが話している目的ではない。
考えてほしいのは、君たちは「宗教に君たちにとっての幸せが何かを決めてもらいたいのか?それとも決めてもらいたくないのか?」ということだ。
君たちがどんな答えをだすかは、君たち次第だから、パパがどう思うかは気にしなくていい。
気にしなくてもいいけれど、参考までにパパの考えを話して置く。
万が一、パパの意見を聞きたくなったときに、パパがいなかったら困るからね。
何が幸せか?を他人に決めさせてはいけない。
君たちは君たちの幸せを探す旅をしている。
その幸せは他人の賞賛や非難とは関係ない。純粋に君の心の中の問題だ。
だから、何が幸せか?を他人に決めさせてはいけない。と、パパは思う。
何が幸せかを他人に決めさせてしまったら、自分の人生ではなく「他人の期待」を生きることになるからだ。
なぜ、君たちの人生なので他人がその価値や意味を評価する必要があるのだろうか?
そして、なぜその評価を気にして、どう生きるべきかを決めなければいけないのだろうか?
もちろん、他人の意見なんて気にしなくていい。
それは本質ではない。
幸せも人生の意味と同じように、皆が納得できるたった1つの答えの無い問題だ。
最初の方に書いたとおり、幸せとは君たちの様々な経験との比較や考え方できまる。幸せはおそらくどこにでもあるが、厄介なことに比較しなければそれと気がつく事ができないものなんだと思う。
だから、いろいろな経験をするたびに、君たち自身の気持ちはどうか?感じてみて欲しい。
選択をするたびに、君たちの幸せに近づいているのか?いないのか?を考えてみよう。
君たちの人生は君たちのものだ。
人生を宝探しを楽しみなさい。
パパは君たちが幸せとともにあることを心より願っている。
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