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理屈に合わないからこそ思考する組織開発

Microsoft は頻繁にWindowsの更新を行っています。更新メッセージに従えば、より便利になるのかもしれませんが、更新するたび、自分なりに構築してきた便利さが失われてしまうことには辟易とするものがあります。とくに、自分にとって不要な技術の更新のために、このような苦行を強いられることには抵抗を感じます。それでも、マニア化したユーザー以外は、プラットフォームがコモンとして存在していない以上、『サポート』を経済合理性で解決するために生じる不便には、抗いようもありません。このように、従来からあるものを塗り替える作業を続けることで、そこに生き埋めにされていくものが溜っていくのでしょう。

高度に専門化された内容に対して、このような、ある種の情緒的な議論を吹っ掛けてみても、正しい判断が下されないことは自明です。でも、誰もがマニア化すべきなのでしょうか。確かに、結果として、コモンであるはずのものが一部に独占されてしまってはいますが、それへの対抗手段が知識・技術の習得だけと捉えることは、あまりにも前近代的な発想のように思えます。むしろ専門家にも、素人の抱く感情を否定しない姿勢が求められるべきでしょう。すなわち専門家は、素人の発する感情の根元を探り、表面的な論破(ディベート)で優越感に浸るのではなく、ましてや寄り添ったフリをするのでは毛頭なく、そこに対して専門的反論を構築していくことが必要であるように思います。

しかし素人は、従順にも、やっと咀嚼したものであるにもかかわらず、無抵抗に上書きを進める。そして専門家もそれに胡坐をかき、馬耳東風を決め込む。どうも、このようなことが習い性になってしまっているように思われます。

科学者あるいは技術者は、世の中を秩序あるものとして捉えようとします。換言すれば、論理によって世の中を説明できると考えています。しかし現実には、論理によって排除された“ゆらぎ”のようなものが存在します。例えば、ランダムさえ数列化した数学でも数式化できない素数は、暗号という世界で中心的な役割を果たしています。また流行のAIも、結果を生み出すプロセスのブラックボックス化の進展が、技術の進歩そのものとなっています。わからないけど(“ゆらぎ”を無視して)、確かに“在る”とみなして技術を進めることは、逆説的に、思考停止が科学技術を進歩させているようにも見えます。

本能とは生理運動で、体内で多様な分泌物を生成させることで生まれる、ある種の反応とみることができるでしょう。一方で、その反応をコントロールしようとするのが、理性と言われるものであるように思われます。そして、その狭間にあるものを、フロイトは『欲動』と名付けました。欲動とは、本能が行動に移させる前に働く機能とされます。ここから、人の行動は欲動にあると解釈されます。さらに欲動は、嗜好に基づく流動的なものと提起されました。換言すれば、欲動は感情となるでしょう。そこで欲動をコントロールするのが理性となり、これは倫理を基盤とする論理であると思われます。このようにみてくると、“ゆらぎ”とは感情であるとも理解されるでしょう。だからでしょうか、高度に論理化された社会で、人間の心(感情)は脳にあるのではない(反応ではない)という気付きが得られ、瞑想が流行っているのかもしれません。

動物が本能に従うとするなら、人間は本能ではない欲動に従うことになります。このことは、人間が動物から逸脱しているということです。換言すれば、欲動は人間性そのものであり、逸脱することが人間性ともえいるでしょう。ここで逸脱とは、マジョリティに与しないということです。したがって、正当性を求める(多数派に従う)ことは理性であって、人間性に依るものではないとも言えます。無抵抗にソフトの更新を行う私は、私の作り上げてきた文化を失うばかりではなく、人間性さえも失っているのでしょうか…。

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