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人も組織も爆発させない組織開発

滅私奉公は一体感に繋がらない

組織メンバーが行う行為には、“明”なる部分と“暗”たる部分があるでしょう。例えば、1人ひとりは正しい(役に立つ)と信じて行動しているのに、全体的な動きとしてはイノベーションの否定にすぎなかったり、縮小均衡に向かったりしてしまうのです。そして“暗”たるときの滅私奉公が、なぜか必要なことで、素晴らしいもののように見えてしまうように思えます。おそらく、1つの方向に向かっているという一体感が、そのように見せてしまうのでしょう。
本来、滅私奉公は、組織が脱皮する痛みに対して発揮されるべきでしょう。そうなるためには、まず、組織と“私”という関係が、互いが互いを必要とする関係であるという原点に立つ必要があるように思えます。換言すれば、組織が一方的に示した方向を無条件に受け入れることを、“一体感”としてはならないということです。

組織と“私”は平等

組織が存在するとは、そこに従事するメンバーがいるということです。つまり、メンバーがいなければ、組織もまた存在しないという、当たり前のことです。しかし組織と“私”は、主従の関係でも、対等な関係でもなく、ただ、平等であると思うのです。
組織メンバーは、組織に注意を向けます。そして、そのことによってまた、組織から注意を向けてもらえると信じます。このとき、組織が“私”に注意を払うとは、組織が“私”を承認するということでしょう。換言すれば、粉う方なくココが自分の居場所だと信じられることです。つまり組織と“私”は、組織が“私”に何かを与えてくれるとういう関係ではないということです。
もし組織メンバーが、組織と“私”の関係を「組織が“私”に何かを与えてくれる」関係と捉えれば、それは労使関係という、労働と対価による主従関係になってしまいます。このような視点でいるから、滅私奉公がブラック企業の温床となったり、上司がハラスメントに怯える契機になったりするのでしょう。

普遍性は全体を示さない

例えば自然が美しいのは、「そこに幾何学的なものを見いだすから」と言われたらどうでしょうか。確かに、幾何学的な美は存在します。しかし、それだけとするのは偏っていると思うでしょう。料理の専門家が「このタケノコは美味しい」と言う場合は、美味しいタケノコの定義が存在し、その定義に合致するという意味合いを含みます。だから、汎用性があると言えるのです。でも、そもそもタケノコが嫌いという人にとっては、決して同意できないでしょう。
幾何学的な美も、美味しいタケノコも存在するでしょう。そして、それには普遍性があると言っても良いでしょう。しかし、それだけで美のすべて、タケノコのすべてを語っているわけではないということは、重要な視点だと思います。科学(論理・理論)は、わかっている範囲でのみ正しいのです。
自然に美を見出だすこと、美味しいタケノコと評価することは、科学というよりも本能なのでしょう。つまり、自然に目を配り、役に立つもの、危険なものを見分ける能力を必要とした結果(進化)だと思うのです。だとするなら、周囲散漫な態度、自ら美しさを判断できず他者評価に依存することは、人としての退化になるかもしれません。

アート思考で乗り越える

このような視点の転換は、デザイン思考からアート思考への転換とも言えるかもしれません。
デザイン思考は、「静かな庭」のように、客観的かつ論理的に表現されていく、言わば他者視点の思考です。一方、アート思考であれば、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」のように、主観的かつ感情的に表現されていく、言わば自分視点の思考です。
アート思考は、このように非論理なため、他者理解という点ではデザイン思考に劣ります。しかし、デザイン思考には感情が含まれないため、周囲を説得することはできても、周囲を納得させる力を持ち得ません。このギャップに目をつぶらないことが、組織と“私”を平等の関係に導き、組織メンバーが行う行為を“暗”たる部分に向けさせない手立てになるように思われます。

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