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上司を“炎上審判”にしない組織開発

スポーツにおいて、審判の判定が炎上することがあります。応援しているアスリートやチームに不利な判定が下されれば、感情的になるのはわかります。しかし、それが攻撃性を帯びるほどにエスカレートする原因は、審判の絶対性と、それに付随した“私”の絶対性にあるのではないでしょうか。
自身が絶対的立場にあるという意識を持つことができるには、そのように他者との関係性が築けていると認識することが必要です。審判に対しては、プレーヤーがそれを認めているという状況が必要であり、審判を非難する“私”には、それに同調する者が必要となります。この場合、前者は限られたメンバー間だけの合意であるため、絶対性に対するある種の強度は常に一定です。しかし後者の場合、同調する者の数によってその強度は変化します。
スポーツへの熱狂は、そこに参加することで他者と繋がれ、他者と繋がれることで自己を確認できるという同時相関関係から生まれます。そして、その“輪”の中に自身を置くこと、すなわち自己意識の相対化によって自己意識は変化していき、時として歯止めが効かなくなっていきます。だから、ある種の一体感が生まれ、乱闘や“炎上”という事態を引き起こすのでしょう。
このように、スポーツが気持ちをハイにさせるのは、そこに没頭できるからです。だから、ダイジェストで観たり、早送りで観たりしても、そのような没頭状態にはなりません。にもかかわらず、このようなタイパ視聴でも“炎上”が起こるのは、なぜでしょうか?
そもそもタイパ思考下では、情緒などを失わせる一方、自分の感情には気づいて欲しいと強く思っています。そこで、検証というプロセスを排除した、即時的な行動が生まれるのでしょう。これは、早く同調者を手に入れる(早く仲間に加わる)ことを求める傾向が助長しているようにも見受けられます。もっとも、タイパ志向と言いながら、5分間の癒しを求めて3時間を費やしたりもしているのですが…(テーマパークの行列に並んだり、面白い動画を求めてSNSをザッピングしたり…)。
それはともかく、本質的に人は、聴覚や視覚への刺激によって感じる、心地よい、脳がゾワゾワするといった反応・感覚などを求めてスポーツを観ているのでしょう。つまり“炎上”させる人は、そもそも応援がしたいわけではなく、ましてやスポーツ観戦を楽しむことも求めておらず、ただ、ハイになりたいだけなのかもしれません。そのため審判への攻撃は、虚構の“正義”をもたらす(絶対性に関与する)ため、格好の材料になっているようにも見受けられます。
そもそも心理的時間は、代謝速度の影響を受けます。だから、新陳代謝が激しい子ども時代は、振り返ると、長い時間を過ごしたように感じるわけです。また、新鮮さを感じる回数が多いほど、同様に時間を長く感じます。ところが、その瞬間の時間に対する意識は、全く逆となります。楽しい時間は速く流れ、退屈だったり辛かったりする時間は長く感じるものです。
つまりタイパ視聴は、単なる時間効率ばかりではなく、マンネリ化を避けるために“炎上”ポイントを見つけようとしているとも見て取れます。そして“炎上”させることが、自分が充実感を得ている(今の時間の過ごし方に納得している)ことへの免罪符になっているのかもしれません。
このようにタイパは、結果的に遊び心を喪失させているように思われます。なぜなら遊び心は、結果を念頭に置かずに、したがって失敗を恐れず、多様な選択肢を持ち、行動が起こせることだからです。換言すれば、タイパはストレス耐性を弱め、レジリエンス力を下げることではないでしょうか。これは、自分自身を解放する“赦す”という感情の立ち上げを妨げる行為でもあるように思えます。なぜなら、そこに至るには苦悩のプロセス(例えば、時間をおいて冷静になるなど)を踏まなければならず、それは快楽(没頭)と相入れない行為だからです。
人は誰でも過ちを犯すとは、おそらく数少ない普遍性のひとつでしょう。換言すれば、絶対に過ちを犯さないと位置付けることが、そもそも過ちであると言えるでしょう。それでも何かを判定しなければならない時は、自身も、また周囲の人も、自分自身を解放する“赦す”という感情を立ち上げることが必要であるように思われます。だから日常は、苦悩のプロセスを厭わない“遊び心”で満たすことが望ましいのではないでしょうか。

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