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【短編小説】クラゲ

 神は死んだ。

 これまで人は生きる意味の不在に耐えられずに大きな物語を捏造し、自己愛性人格障害の教祖にすがるような真似もしてきたが、結局世界の真実に対する嘘は必ずばれる。すべての価値が相対化し、生きる意味の不在が受け入れられたポストモダン以降のニヒリズムにおいては、人々は三大欲求の充足のみに価値を見出すしかない。いくら景観の素晴らしいホテルに泊まり、器までこだわり味覚による幸福感を増大させ、そしていくら着飾ろうとも、動物的行動であることに変わりはない。
 IQは幸福度と負の相関を示すのだ。恋愛至上主義と呼ばれるこのつまらない現代を受け入れられず、答えが出ているはずの生の無意味性を受け入れることができずに、真実から目をそらし生きる意味など思索してもう三十歳になってしまった。頭で分かってはいても、人は見たいものしか見ないという欲求からも逃れられないようだ。

 自分は新卒から長野県の製薬企業の研究所に勤めてきたが、30歳を前にして臨床研究関連の学術職に異動となり東京に来た。これまで人生のほとんどを研究と読書とテニスに費やしてきた。たこ焼きパーティなどというものとは縁のない学生生活だった。彼女ができたのは一度きりで、女性というものは知れたが関係は3ヵ月しか続かず、それから約10年間恋愛に興味を見出すことはなかった。
 現代においては結婚の価値は将来の不確定な不安への保険的価値しかないが、生命保険に入るよりはメリットがあるのではないか。自分も結婚を視野に入れる年齢だ。現在の職場は男七人のみで、出会いを求めるなら婚活パーティかアプリだが、自分の場合は一択だ。
 そこでスポーツのシーズンが終了した秋からアプリを始めてみようと思っていた。しかし最近足を痛めて少しの間テニスができなくなってしまった。MRIも撮ったが問題は一切なく、医者もそのうち治るだろうと神経の修復を促進するビタミン剤が処方されただけだった。テニスの練習がなくなるとかなり時間の余裕が増えるものの、それをすべて読書に充てるほどの思考体力はこの歳ではすでにない。加えてスマホのソシャゲであるフィギュアステージ、通称ギアステがこのタイミングでサービス終了を迎えた。他にはスマホゲーなどまったくしないのだが、バーチャルYouTuberの絆アイとのコラボに惹かれて手を出したが最後、育成したフィギュアの戦闘などよりもフィギュアでのAR撮影機能のクオリティの高さに惹かれて3年も続けてしまった。そこで手持ち無沙汰に予定より早く6月からアプリに手を出した。

 自分のプロフィールに書けるのは人生で築き上げてきたスペックだけで、テニスのクラブチームでプレイしていることや読書経験を生かしてネットでエッセイを発表していることなどだ。容姿は比較的整った中性の塩顔なのもあり、今まで女子受けは悪くない方だと思ってきたが、楽しく遊んだ経験を書けないこんなプロフィールがアプリ内で受けるわけがない。とはいえこのような場所で噓を書く心理は理解できないし、このプロフィールで興味を持ってくれる人がいるなら話してみたいと思っていた。
 それにしても、他者の欲望を欲望するという表現があるが、アプリほどそれを再認識する場もないのではないか。どのユーザーもプロフィールが驚くほど同じで個性などほとんどない。人間は見た目の異なる高性能な量産型機械のようだ。かの養老孟子は個性とは身体そのものであり、個性など出そうとしなくても皆まったく違うと述べていたと記憶しているが自分はそうは思わない。人の身長は正規分布に従うことは有名だが、このことは人間もセントラルドグマに従って作られた製造品と捉えることができることを示しており、個人の差つまりは『個性』など『誤差』と同義なのだ。

 そんなアプリ内でモテないことの憂さ晴らしを脳内でしていると珍しく『いいね!』が来た。彼女は35歳でそれなりに年上だが、20代にも見える童顔でかわいらしい顔をしており、こんな人が自分に関心を持つなんて正直意外だと思いながらプロフィールを確認した。彼女のプロフィールは他とは毛色が異なり自分の言葉で伝えようとしているのが印象的だった。特に面白いと感じたのは【恋愛観】という項目を記載していたことだ。

「これから先、暮らしの中でつまずき、転ぶこともあるでしょう。穏やかに運ばぬ日もあるでしょう。でもこのひとと一緒なら、きっとどんな日々も温めてゆける。誰かと比べることなく、自分達のものさしで、幸せを感じられる。そんなふうに思えるあなたと出会えたことを私はこの上なく幸福に思います」

 しかし好きなものに『ムーミンがすきです』と書いてある。このような記載に弱い男は多いだろう。自分がムーミンの言葉で唯一知っているものがある。『これが最後と思うのが最初の恋 これが最初と思うのが最後の恋』。プリマドンナの馬の言葉らしい。この言葉で多くなされる解釈は次のようなものではないだろうか。人は初めて恋する時、『この人とずっと一緒にいることができたらいいな』と初恋が最後の恋だと思う。そして人はいろんな恋の経験を重ね、最後の恋にたどり着いた先に思うことは『こんなに好きになったのは初めて』であり、これこそ初恋だと感じる。しかし考えてみてほしい。『こんなに好きになったのは初めて』とそれゆえに『これが最後の恋』と思うのはいつも同時、つまりは新たな恋をするたびではないだろうか。読んでいると言葉の意味がループしてよく分からなくなる表現であり、永遠に繰り返して終わらない恋愛の不毛さを言葉で巧みに表現した名言だと思う。

 結局自分は好きな本ベスト3も載せていて、読書好きと書いてあるのも悪くないと思い、未だに様子見を続けていたのだが、彼女と話すために有料会員となった。ちなみに彼女の好きな本ベスト3は『52ヘルツのクジラたち』、『ライオンのおやつ』そして『星の王子さま』だった。彼女からの最初のメッセージはすぐに来た。

「はじめまして!まりと申します*いいねを受けてくださってありがとうございます。まさか返していただけるとは思っていなかったので驚きましたが嬉しかったです!」

 自分にとっては人生で初めてのアプリでのやり取りだ。

「はじめまして。こちらこそありがとうございます。プロフィールの内容を見てすぐにいいねを押すことに決めました👍こういったアプリでやり取りするのは初めてです。不慣れですがよろしくお願いします」

 彼女は僻地医療に興味があり、看護助手として二十代後半からずっと離島生活を送ってきたらしく、最近実家のある千葉県に戻ってきたばかりらしい。いまはイベント制作会社で働いているという。

 これまで2種類ずつ程度の絵文字と顔文字しか使ってこなかったがそれでは初対面の異性相手にはさすがに味気ない。覗いていただけのソシャゲのチャット欄で身に着いていた顔文字の感覚がこんなところで役に立った。それに雑談のようなおしゃべりはあまり好きではないが、エッセイを書いたりと言葉を扱うのが得意なせいか、トーク力が高いと言われることはある。自分としてはいい感じで会話が続いたのではないかと思っている。アプリらしくお互いの恋愛観の話になると彼女が意外なメッセージを送ってきた。

「星の王子さまの作者のサン=テグジュペリが残した、こんな言葉があります。『愛とはお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである』。順調なときは互いに見つめ合うだけで十分かもしれない。でも長く一緒にいれば、うまく嚙み合わない日だってたくさんある。私たちもこれから、ぶつかり合うこともあるかもしれない。なぜ分かってくれないんだろう、なぜ通じ合えないんだろう。相手との隔たりに目を向けてしまって、悲しくなったり、呆れたり、苛立ったり。それはきっと、互いを見つめているだけなのかもしれない。そうではなくて、共通の目標があり、“違いそのもの”よりも、その違いを“どう補い合おうか、歩み寄ろうか”そんなふうに、考えることが必要なのかもしれない。並んで同じ方向を見つめていることができて、ふたりの足並みを揃えるために思いを巡らせるその作業こそが、サン=テグジュペリの言う愛なのかもしれないなぁ、なんて、この頃は思うのです」

 これまで恋愛には興味のない生活だったが、愛という概念には興味があった。自分の愛の定義はM・スコット・ペックの『愛と心理療法』によっていたが、彼女による愛の定義は自分の関心を引くものだった。彼女は話が逸れたようで申し訳ないと付け加えていたが、自分はこの話題を広げたいと思いながら返答した。

「これに関しては本当に驚いているのですが、『ふたりの足並みを揃えるために思いを巡らせるその作業こそが愛であるbyまり』は自分が一番納得している愛の定義と同じことを言っている可能性があります」

 サン=テグジュペリがどのような文脈でこの言葉を用いたかは重要ではないだろう。確定的な解釈が不可能であるにもかかわらず心惹かれる殺し文句を見出し、それを手掛かりに自由に思考の幅を広げることも読書の醍醐味だ。
 まりさんは自分が好きなこのような哲学的な話題を面倒がらずに拾ってくれ、ネットで検索して『愛と心理療法』に関しても調べたようであった。

「『愛と心理療法』には『愛は努力なしにはありえない。それどころか、労多いものなのである』とあるようですね。とっても興味深いのでいつかお話を聞かせてください」

 アプリでこのような話題で話をすることになるなんて想像していなかったし、少なくともいつか会った時にと思っていたが、結局自分はすぐに語り始めた。

「まりさんが好きなムーミンの言葉に『これが最後の恋と思うのが最初の恋 これが最初と思うのが最後の恋』というのがありますよね。不安にさせる言葉です。自分たちは何度も初恋を繰り返し、永遠に最後の恋を迎えられないのだと思います。『愛と心理療法』は2回読みましたが、そのどれほどを理解できたのかは分からないし、内容の詳細は全く覚えていません。ただ、『世の中のほとんどは恋と愛の区別ができていない。恋とは感情であり、愛とは意志である』といったことが書かれていたはずです。自分は感情のやり取りである恋を愛と表現するのを聞くのが好きではありませんでした。恋の対象は異性に限りますが、愛の対象に年齢や性別は関係ないはずです。『自分の子供を愛する』という表現からもそれは明白なことです。この本はこの点を強く指摘してくれていたと思います(記憶違いかもしれません)。恋と異なり愛は楽しいものでも何でもなく、その行為から得られるのは、相手からの愛ではなく自分の成長なのだと思います。作家のエルバート・ハバードは『成長には必ず苦痛を伴う』という言葉を残していますが、愛する行為(努力)は楽しくないのでしょう。楽しく生きることを求める人は恋に落ち(堕ち)、成長を志す人は愛そうとするのではないでしょうか(恋は感情/愛は意志)。『ふたりの足並みを揃えるために思いを巡らせるその作業こそ愛であるbyまり』は相手の事を考える意思について言及しているようであり、少なくとも感情については語っていません。だから共鳴する部分があると感じました」

 異なる種類の読書体験から共通の愛の定義に近づきえたことに驚き、これ以降さらに彼女に興味を持つようになっていった。

***

 彼女とは気が合うようであり、電話をすることとなった。だが異性とこのような形で電話をするのは10年ぶりだ。約束の時間が近づくと缶ビール500mLを一気に空にした。しかしいざ電話が始まると、これで何とか30分は持つだろうと用意した話題用のメモの使用方法が分からずに焦った。上手く話し始めることができない自分に対して、彼女は話題を提供してリードするのではなく、電話の向こうからでも分かるように優しく微笑むような笑い声を聴かせてくれた。
 それから何を話したのかはよく覚えていないが、結局3時間も話していた。彼女は自分と同じくらい変わり者で、読書が好きなのは一時でも世間の煩わしさから解放されるからだと言っていたし、テレビを一切見ないというもの共通していた。また、水族館でクラゲを見るのが好きで、その理由を次のように語っていた。

「クラゲには脳がないんです。だから仲間から離れてしまってもさみしくない。そして、死ぬと溶けて泡になるんです。儚くてよいです」

 自分と同様に感受性の豊かな人なのだろう。また一つ彼女に惹かれた。

 彼女が表参道の美容室に来る日の夕方から初デートをすることになった。彼女は電話の際に散歩デートが好きだと言っていた。とはいえ異性とまともにデートするなど初めてであり、デートプランを提案するのも初めてだ。
 しかし今回は案をすぐに思いついた。夜の豊洲での散歩デートだ。豊洲図書館は東京に来てから1年近く毎週のように週末に通っており、気分転換に豊洲公園の方に散歩にも行けるため非常に気に入っていた。ここなら慣れているため多少は初デートの緊張も和らぐだろう。自分が唯一東京で思い入れがある場所を初デートの場所にできるのも悪くないなどと思ったりもした。
 彼女と共通して好きなものであるパン屋も豊洲ららぽーとには複数ある。当日は曇りもしくは雨といった予報だったが、雨の時は豊洲図書館に行けば景色の良いくつろぎ場がある。お互い本好きであり、そうなっても悪くはないだろう。また夜景は高層階の屋根付きの足湯から見ることができる施設が近くにある。二人とも海鮮系が好きなので食事は豊洲らしく新しくできた『千客万来』で食べ歩きをするのが気まずくなりにくくてよいだろうし、雨天時に備えてデートに向きそうな雰囲気の彼女が好きな焼き鳥の専門店が豊洲駅近くにあることも確認した。”天才”という言葉と同様に安易に口にしたくない言葉だが、初回としては”完璧”に近いデートプランのはずだ。

 彼女との二回目の電話でデート当日の予定の詳細を決定した。

「ベンチに座った後、緊張してずっとだまってしまうかもしれない」
「そうしたら、私は隣でずっとにこにこ笑っています」

 デートがうまくいったのは、完璧なプランのおかげではなく、彼女のおかげであることは言うまでもない。
 初デートまでに彼女とは多くの言葉を交わしており、容姿に大きな異存がなければ、お互いすでに気持ちは固まっていた。

***

 いまだに足の不調は続いていた。そこで念のためにと血液検査を受けることになった。検査結果と自分の現在の症状を見て、いつもは不愛想な担当医が街に溢れる天使のような悪魔の笑顔を見せていた。大きな病院で詳細な検査を受けることになった。筋萎縮性側索硬化症だった。
 筋萎縮性側索硬化症は筋肉が瘦せていく病で、いずれは歩けなくなり、治療しなければ数年で呼吸もできなくなり死に至る。進行を遅らせる薬はあるが根本的な治療法は存在しない。
 幸福が定量化できるとして、人が絶望するのは幸福度が低い状態にいる時ではない。絶望はより高い幸福度からそれより低い幸福度に変化する瞬間に生じるのだ。そして絶望の大きさはその変化の振れ幅とその変化に要する時間、つまり負の方向への幸福度の変化の速度の大きさに比例する。それぞれ薬理作用が説明可能な複数の脳内ホルモンで相加あるいは相乗的に作られた幸福な幻想から月単位で数える死への恐怖の前に目覚めさせられたこの絶望の手触りが想像できるだろうか。自分の頭が恋愛の初期以上に馬鹿げたことを考えたことをどうか許してほしい。

 自分は物理的に自慰行為との違いがない好きでもない異性との交わりには未練がない。しかし人生で一度でいいから本当に好きになった相手と交わってみたいという穢れた欲望はあった。彼女とはまだキスもしていなかった。丁寧語が抜けすらしない関係であったが、自分の要求を彼女は受け入れてくれた。しかし、彼女のいつもと違う真剣な顔をいつもよりも近くで見て、自分の脳内のデバッグは瞬時に終わった。自分がより気持ちの良い方を選んだだけだ。自分の精神まで汚して、この薄汚れた世界の色と同化するのはごめんだ。しかし、行為をやめようとする自分に彼女は言った。

「病気のことは知ってます。私頭は良くないですが、僻地医療に携わってましたので、高齢者に多い病気には詳しいんです。少し動きに違和感があるなと思っていましたし、たまたまこの前財布の中にある薬の名前が見えてしまいました。大丈夫です」

 自分もすでに冷静になっている。

「大丈夫じゃないでしょ。まりさんの将来を傷つけるようなことをしたいとは思わないです。気を使う必要はないです」

 次のまりさんの答えは自分の物の見方を少しだけ変えさせるものだった。

「どうして私の将来が傷つくのでしょうか。これまで動物的な欲求というような私には少し難しいお話を聞かせてもらうことがありましたね。偉そうなことを言ってしまうのですが、人がこのようにして触れ合うことは、単純には説明できない、人間だからこその欲求とでもいうものによるのではと思ったりします。もし神様の語る愛において、今ここでの行為が人を傷つける行為だというのなら、私は神様を信じません」

 “彼女が言う”この言葉という条件は、自分には見えなかったものへの単純な気付きを得るのに必要だったようだ。もちろんこの時自分が考えたことをここで体現できるわけではないだろう。何度濾過しようと思考過程における恣意性の不純物の残滓を認めざるを得ないことも正直に述べたい。動物と同等以上に人間というものは眼前の三大欲求にだけは従順なのであり、後先考えることなく不要な栄養素で腹を満たし、サーカディアンリズムに反して眠り続ける生き物だ。彼女が与えてくれた気付きというのは、行為的にはこの三大欲求における情欲とパラレルだが、逆に『今ここ』だけを考えてこそ人間的な欲求なのだといえるものがあるのかもしれないということである。宇宙的な信仰にならざるをえないが、装飾的ではない精神の醸成の先にある、人間の生の意味に繋がる親密性とでも呼ぶべきものがあるのかもしれない。さらにその先での仏教哲学との邂逅を予想して、自分の人生は幕引きとなりそうだ。
 無知の知より意識すべきは原理的に回避できない無視の知とでもいうものだ。この自分の生まれつき性に対して閉鎖的な思考の陥穽は、それにより築き上げた偏見の壁を向こう側から打ち崩すことで埋めてもらう必要があったのだと今更ながら思う。

 流れた涙に彼女とともに濡れ、二人だけの意識の海に潜る。『我思う、ゆえに我あり』。この難解な命題が真だとして、一瞬でも頭の中が真白い明るい闇に照らされ、思考という観念が揺らぐこのときをいったいどのように表現すればよいのだろうか。クラゲ。世界と一体となり、すべての二項対立が消失したこの一瞬に儚く泡となって消えてしまいたい。


 神が死んで、価値基準が相対化されることで、人々はバラバラとなった。しかし、それ故に自分の意志で選んだ他者と自由な親密性を築くことができるようになったのだ。今、正しく生きるための指針が存在しないこの世界では、進むべき方向を決めるのは成長を指向した『愛の意志』だけだ。

 神は愛を与えるなんていうのは大嘘だ。

 神が死んで、愛は生まれた。

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