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“恋マジ”は単なる恋愛至上主義ドラマなのか?

2022年4月18日(月)、遂にその日が来た。
朝ドラ『カムカムエヴリバディ』の雉真稔役でたくさんの人を魅了した松村北斗の新たな作品が世に放たれる瞬間である。それがカンテレ制作・フジテレビ系列月曜22時のドラマ『恋なんて、本気でやってどうするの?』。今回松村北斗が演じるのは刹那恋愛主義男子・長峰柊磨という役である。これまでがっつり恋愛モノの作品は映画『ライアー×ライアー』くらいで、松村北斗自身のキャラクターとも真逆の新たな役どころで、どうなるか?とワクワクしていた。

『恋なんて、本気でやってどうするの?』


仕事を必死に切り上げ、リアルタイムで視聴し、放送終了後、ぼんやりとTwitterを見ていると、そこには意外な感想が多くあった。
それはドラマの脚本に関するものだった。
「恋愛はした方がいい」「恋愛をしている状態が正しい」という価値観がストーリーの根底に流れている恋愛至上主義ドラマだ、という感想だった。そしてこんな恋愛至上主義の価値観はこの令和の時代にふさわしくない、というようなものもあり、さらには朝ドラでブレイクした松村北斗の次回作がこんな時代錯誤なドラマなんてどういう基準で仕事を決めているんだ、というものまであった。SixTONESのファンの人でも同様のことを言っている人がいて、なんだか悲しい気持ちになった。

私は「そんなにか?」と思った。
そもそもドラマだから、作り話である、という前提はあるし、正直なんとも思わなかった。ちなみに私はヒロインである桜沢純の価値観に近いタイプの女子だと思っている。社会人になって、生活の中心は仕事。恋愛は無駄だとは思わないし、結婚もした方がいいんだろうな…と思いつつ、恋愛の始め方や一喜一憂する体力が自分にあるとは思えず、億劫になっていることは間違いない。さらには過去の恋愛の経験上、相手をダメにし、自分もダメになる共依存気質があることを自覚しているのもあり、なかなか踏み出せずにいる。恋愛を生活の中心というか、仕事と同等のレベルまで引き上げられるか?と言われると、正直微妙なところだ。かといって、結婚に全く興味がないか?と言われると、興味はないが、考えなければならないとは思う。生涯本当に一人で生きていけるのか?と言われると、その自信はないし、友人の結婚ラッシュを見ていると、自分の現実もなんとかしなければとも思う。

だからこそ、「恋愛至上主義のドラマだ!」という言葉を目にした時、恋愛至上主義の真逆にいる自分がそれを感じなかったことが不思議だった。
そもそもドラマの第一話というのは助走中の助走である。今後の展開なんて、まだ検討もつかない。でも第一話を見て、感じた登場人物の様子、このストーリーの核となるのではないかと感じたものを柊磨を中心に見ていきたいと思う。
柊磨が中心なのは、私が松村北斗の演技が好きだからなので、ご理解いただきたい。


柊磨の刹那恋愛主義には何かワケがある。

私は第一話を通して、そう確信した。
松村北斗が表現する長峰柊磨の繊細な表情を見ていると、そう思わずにはいられなかった。と同時に、柊磨を見ながら、映画『ファースト・ラヴ』の庵野迦葉を思い出した。女性への接し方が偏っているイケメン男子という点が共通しているような感じがしたのだ。(どちらの作品も浅野妙子さんが脚本を書かれていることをのちに知る)
ここからはあくまで私の予想であり、持論なので、違うと思ったらリターンしてください…!

私は容姿がいい人は容姿がいい人なりの苦悩を抱えていると思っている。自分は決してそちら側の人間ではないので、あくまで推測ではあるが、自分の本質を見てくれる人に出会うことが難しいと感じているのではないか。考えてみると、学生時代、特に自我がそれなりに形成された高校生くらいの頃、容姿のいい人たちは常にクラスの中心にいたように思う。周囲から興味を持たれないことはあれど、嫌われることはないように見えていた。究極なことを言ってしまうと、多少性格に難があれど、許容されていることもあったように思う。自己肯定感が高く、自分に自信があるように見える。でもそう見えている姿には裏があるのではないかと思うのだ。容姿がいいが故に、その人の本質的な面で評価される前に、容姿で評価されてしまう。それ以上、追究されなくなってしまう。
昔どこかで見聞きした「イケメンと美人はブランドバッグと同じ」という言葉がリフレインされる。自分の知り合いが、友人が、恋人が、関係を持つ人が、容姿がいいということは、「私にはこんな人と、こんな関係がある」という自慢材料になってしまうのだ。自ら誰かに働きかけることを望んでいなくても、理想を求められ、それに応え続けることを求められているのではないだろうか。
もちろん一概には言えないが、私は周囲を見ていて、そう感じたことが過去にある。

そして柊磨にもそれを感じたのだ。
女性から求められるがままに対応するその姿から。
女性たちは自分の内面や人間性に到達する前に、自分の容姿に満足して終わり。本当の自分を誰も理解してくれない。
その事象に諦めを抱いている。だからこそ、初めてレストランに来るお客様にはマスクを外し、魅了して、自分の土俵に持ち込む。そして相手が喜ぶであろうコミュニケーションをとり、相手の求めるがままに応えることで、一定の距離を保っているように見えた。相手に必要以上に自分の心に踏み込まれないようにバリアを張っているようだった。
だから、誰かからひっきりなしに必要とされているのにも関わらず、どこか満たされない、寂しい表情をしているのが違和感だった。竹内ひな子と一晩を過ごし、別れ際の表情が柊磨の本当の姿のように感じた。
柊磨はそういう接し方しか知らないし、わからないのではないだろうか。

そんな柊磨の“調子を狂わす”のが純なのである。
レストランに来れば、ほとんどの女性は柊磨の虜になるのに、最初から柊磨には目もくれず、料理に夢中。だから柊磨はマスクを外さなかった。
後日、女子会で純が訪れた時も純だけは柊磨のイケメンに反応していない。女子会の会話を聴いていた柊磨からしたら、簡単に落とせると思っていたであろう純に柊磨は断られてしまう。まるで肩透かしを食らったような、面白くないと思ったのではないかと思う。
しかし彼女が“推し”と称する長年の片想い相手に失恋し、レストランを訪れた時、柊磨は純が欲しいと思うであろう対応をしたのにも関わらず、再び断られてしまう。だからこそ柊磨は純のことが気になって、追いかけたのだろうし、声をかけたのだと思う。
そして純から肩を貸すことを求められ、涙を流す純をただ受け止めることだけを求められたのは柊磨にとって、初めての経験だったように見えた。イケメンで、女性に求められ、それに応えることで自分を守る。そういうコミュニケーションしか知らないし、そういう扱われ方しかされてこなかった。でも純はこれまで柊磨が出会ってきた女性とは違い、一人の人間として、自分のことを求めてくれ、頼ってくれたあの一連の流れに、柊磨は戸惑っているように見えた。そんな絶妙な表情を松村北斗は表現していた。あの数秒があったから、あの表情があったから、単なる人たらしのキャラクターではなく、柊磨にはきっと何かがある、と視聴者に思わせたのではないだろうか。


このドラマは“恋愛”という一つの対人関係の表出を通して、それぞれの登場人物の価値観の変化を描いていくのではないかと、第一話を見て、感じた。
純も柊磨も響子も要もアリサも克巳もそれぞれの恋愛に対するスタンスや表出している行動はあくまで一つの側面に過ぎず、本当に伝えたいことはそれぞれの人物のこれまでの人生や経験に秘められているのではないだろうか。誰しも何かを抱えているから、そうなっているのであって、その抱えているものをどこまで表現・描写ができるか、それによって視聴者が共感できるか否か、がこのドラマの面白さに繋がるのではないかと思う。きっともっと深い主題があるように思う。それがまだわからない段階で、恋愛至上主義の要素しかないと判断してしまうことはもったいない気がする。
何より脚本を書かれた浅野妙子さんはあまりの衝撃に今も鮮明に覚えている『ラスト・フレンズ』を手掛けた脚本家の方だ。あの時代にあれだけのセンセーショナルかつリアルなストーリーを描いた脚本家の方の作品が単純なわけがない、という期待もしている。
個人的には『30までにとうるさくて』に次ぐ、グサグサ刺さるドラマになる予感がしている。

そして松村北斗の繊細な演技が必ずや光るドラマになると思う。
「稔さん」の時とは違う、内面に秘めたものをどのように表現していくか、ここからストーリーの展開とともにしっかりと見守りたい。少なくとも、第一話の各場面の表情は素晴らしいものがあった。柊磨という複雑そうな人物を丁寧に繊細に演じてくれることを期待したい。

どうかこの作品も彼にとって、出世作となりますように。


PS.挿入歌であるSixTONESの『わたし』が先ほど4月23日(土)のSixTONESのオールナイトニッポンサタデースペシャルにてドラマよりも長尺で流れました。本当に名曲。気になった方はradikoで聴いていただくと同時に、是非すでにリリースされている『ってあなた』という楽曲も聴いていただきたいです。素敵な音楽をありがとう。




おけい

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