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オタクである自分を認められたあの日まで #5

#5 番外編 自己肯定感が低いって可哀想なこと?

「なんか可哀想っすね。」

突然大学の後輩からこの言葉をかけられた時、言葉の通り、目の前が真っ暗になった。

私って可哀想なの?

その後、すれ違う人全員に聞いて回りたいと思うくらい。可哀想なのか?本当に?


この言葉をかけられたのは、大学の卒論発表の後だった。コミュニケーション論を専攻していた私は比較的自由なテーマを選べることから、自分らしいテーマを選んだ。それまでの自分の経験から、#3 居場所が欲しかったで書いたヴィジュアル系バンドを推していたバンギャル時代に色濃く特徴があったファンコミュニティにおける人間関係について書いたのだ。

簡単に内容を伝えると、バンギャルに限らず、ファンコミュニティにおけるカーストは存在すると思う。だが、この人間関係の特徴は推しとファンの距離が異様に近い場合に起こりやすいと想定している。ヴィジュアル系バンドはもちろん、例えば地下アイドルやホストの世界なんかにもあるのではないだろうか。こういった条件の中に存在するファンコミュニティのカーストの基準は、推しとファンの関係性から得られる「情報の希少性」であるという論だ。これは私の実体験ではあるが、カーストの上に行きたければ、どんなファンよりも推しを取り囲むすべてにおける幅広い情報を持っていないといけない。公式から発信される綺麗な情報はもちろん、プライベートのあまり知りたくないような情報、また推しをサポートするスタッフの情報等、ありとあらゆるすべてだ。限られし者だけがリーチできる情報を自分の力で得て、「私こんな情報をGETできる力があるんだ」と周りに共有する。これが周囲から一目置かれる存在になるために必要なのだ。この希少性の高い情報を得るために、自分の人脈を広げることはもちろん、自分よりも上のカーストの人の懐に飛び込んでいくこともある。失うものを恐れず。
しかし、そんなたくさんの情報に溢れている中でも、最も価値の高い情報は「推しが『私に』話してくれたこと」だった。応援する中で推しとファンの中にも人間関係が構築され、徐々にコミュニケーションが取れるようになる。その関係が深まれば深まるほど2人だけのオリジナルな会話ができるようになる。その内容こそが「推しが『私に』話してくれたこと」なのだ。きっと私じゃないファンには話してない、私にだから教えてくれたこと、を周囲に共有し、「すごい〜!」と言われることこそ、ファン誰しもが目指していたことだった。そのためにはすべての入り口となる「認知」が欠かせないのだ。推しから認知をもらうことは、人間関係構築のスタートラインでしかない。認知をもらうことがゴールなのではなく、そこから初めて推しと自分の関係を築けるようになり、その関係があるからこそ得られる情報たちが自分の武器となっていく。カーストを上げるために、自分の居場所を守るために。

「一目置かれる存在になりたい。」
「ちやほやされたい。」
「自分の居場所を守りたい。」
そんな想いから、推し活をする人たちがいる、という内容だった。

私はこの研究を進めるにあたって、論文を書き上げるにあたって、何度も吐きそうになった。自分が想定していた仮説が崩れることもあったし、論の展開の仕方がわからなくなることもあった。そんなことは全然良かった。研究とはそういうものだから。でも何が吐きそうになるほどつらかったのかといえば、この研究を進めることが、“自分を解き明かす”ことに直結したことだった。自分の実体験がベースにあるものだからこそ、何をどう切り取っても、いろんな文献を調べれば調べるほど、「ああ、当時の私のあの行動の原因ってこういうことだったんだ」と真実が明らかになっていく。幸か不幸か、自分の行動の裏付けができてしまう。そうなるといよいよ、丸裸の自分と本当に向き合わざるを得なくなるのだ。過去の自分の行動から、今の自分に繋がっている行動まで、すべてと向き合うことになった。苦しくて、苦しくて、でも知りたくて。夢中でやった結果、彼氏を放置し、フラれた。(理由はこれだけではないが、いい思い出である)


そんな結果になったこの卒論だが、言ってしまえば、すべては承認欲求から来ているものだと結論付けた。一目置かれる存在になりたいも、ちやほやされたいも、自分の居場所が守りたいの裏側にある、居場所が欲しいも、全部「誰かに必要とされたい」「認められたい」の裏返しなのである。こういった欲求を持つ人がわかりやすく承認をシステマティックに得られる世界が、得られる世界がこのファンコミュニティなのではないかと思う。会社や学校といった一般社会では絡み合って複雑化されたものが、オタクのコミュニティでは、すっきりとわかりやすくシンプルな構造になっているのだ。だから承認欲求を得やすい。

そしてこの承認欲求の裏には「自己肯定感の低さ」というものがあると私は思っている。(もちろん自分も含めて。すべて自分の実体験がもとになっているのだから。)
そもそもヴィジュアル系バンドの世界だと、何らかの傷を抱えている人が多かった。あくまで予想だが、「何があっても平気!自分の力で乗り越えます!!私にできないことはないから!!」みたいなタイプの人がヴィジュアル系バンドの世界に足を踏み入れること、あの世界観に惹かれることはあまりないように思う。限りなく0に近いように思うのだ。だからこそ、自己肯定感という人格を支える根幹の部分に少しだけ、ほんの少し傷を抱えている人がいるということを論文で伝えたかった。そして人々の行動の裏には見えていない、見せたくないものがあるということも。でもそこに対して、受容していくこと、理解はできなくても知ること、生きづらさを感じている人がいることを知ってもらいたかった。


だが、実際は冒頭の言葉の通り、痛烈な一撃を喰らった。数年経っても覚えている鮮明な記憶となった。

あの言葉を発した後輩は確かに自己肯定感が高いタイプの人間だったと思う。わりと自信に満ち溢れていて、輝いている人だった。そんな人から見たら、自己肯定感が低く、他人からの承認を求めている人間は可哀想に映ったようだった。

私は冒頭の言葉を投げられた時、「自己肯定感が低いことって可哀想なの?」と聞き返してみた。

そうしたら笑いながら、「え、可哀想じゃないっすか?笑」と言われた。

そうなんだ。
私にとってはものすごいショックだった。だが、その時はそのように受け止めるしかなかった。


だが、あれから数年経った今。思うことがある。

それは自己肯定感が低いことは決して可哀想なことではない、ということだ。

自己肯定感が低い、自分に自信が持てない、自分で自分の価値がわからない、認めることができない。それは確かに精神衛生上、よろしくないことではあると思う。

だが、それによって得られる不思議な力がある。

何かを行動する時、「自分が自信を持てるまで」という思考もと、自分のゴールを自分で決める。これは大抵の場合、かなり遠くて、つらい道のりである場合が多いと思う。でもその遠く、つらい道を走り続ける力があるのだ。「自分が誰かの役に立っている」「誰かに価値を返せている」、そう思えるまで頑張り続けるエネルギーがある。それによって誰も想像していなかったミラクルを起こすことがある。想像していなかった結果を生むことだってある。
実際私はそれだけでこれまでの社会人人生を乗り越えてきたと言っても過言ではない。上司から「明らかにお金にならない顧客に尽くしすぎるなよ」と釘を刺されたことさえある。
一方で、自己肯定感が低いが故に、何か一度ダメージを喰らうと、普通の人よりも落ち込んでしまうことはある。傷つきやすかったり、凹みやすかったり、病みやすかったり、泣きやすかったり。ちょっと扱いが面倒な面も正直ある。
でも、“自分のため”よりも、“誰かのため”の方が頑張れることってたくさんある。爆発的なちからを発揮するためにはネガティブなことも必要なのである。
もちろん自分をコントロールすることは必要である。大人だし、いろんなものが爆発してしまうと、迷惑をかけてしまう場合もあるので、コントロールはしないといけない。でもだからといって、すべてをコントロールしなくていいことも、時と場合によって存在する。そこを上手に見定めながら、ここぞという時に力を発揮すれば、自己肯定感が低いことは何も悪いことではない。ましてや可哀想なことでもないのだ。

包丁で人を傷つけたら罪に問われる。でも包丁で食材を切って、おいしいものを作れば人を喜ばせることができる。
よく言う言葉ではあるが、使い方が重要であり、そのもの自体が悪いわけでないのだ。


だから、今の私がもし当時の後輩に会ったら、自信を持って言いたい。自己肯定感が低いことは可哀想なんかじゃない。特別な力なんだ、と。皆が努力で得られるような力ではない、天性の特別な力なんだ、と。

そして絶賛ファンコミュニティのカースト争いの中にいるオタクがもしいたら、私は応援する。体力と気力はいるけど、結構楽しいもんだよね。そして、ひとつだけ言葉を贈るのであれば、その力をちょっとだけ別のところで発揮すると、世界が広がるよ。




おけい

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