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ヨルシカ ライブ 月と猫のダンス 4/7


15000人ほど入る有明アリーナでライブがあった。一昨年だかの「盗作」のライブ時は確かキャパが8000人ほどだったから、この数年で大きくなったのだと会場の広さで感じた。僕は1階の正面の一番良い席を取っていて、30列目の端だったのでそれなりに近くで見れた。

今回は1つの演劇の合間に曲が始まるシステムで、本当に特殊なアーティストだなとつくづく思う。自分は「月に吠える」と「又三郎」が特に好きだったので、それを聴いている時は1番涙が流れた。「又三郎」には「型に合った社会は 随分窮屈過ぎるから」という歌詞があるのだが、その部分を聴いた時に心が苦しくて、同時に強く打たれた。

ヨルシカはボーカルの声も含め、余りにも綺麗すぎる。ライトアップの演出とは関係なく、つい目を細めてしまうくらいに煌めいている。「春泥棒」も「靴の花火」も美しくてこんな醜い自分が見ているのが失礼なくらいだった。

「451」という曲はヨルシカの全ての楽曲で唯一n-bunaがメインで歌っているのだが、彼が正面に立って踊り狂うように歌う様には興奮した。弾き語りをしていた動画を何回か見たことがあるが、生でもこんなに歌が上手いのかと感銘を受けた。「n-bunaの背や腹を撫で愛撫したい」という気持ち悪い感情が湧いた。suisは言うまでもなく、知らない曲(新曲?ストリーミング等では公開していない曲?)でもその感情が詰まりに詰まった声が綺麗で、1曲が終わった後の拍手さえ忘れる。

ライブが終わった後は放心状態でただボーッと下を向いて帰りの駅に向かっていた。「この空間が永遠に続いて、そのまま死ねたら本望だ」とさえ思った。周りの客のように気分良い表情で居られなかった。

ヨルシカの楽曲の様な感性だけを持っていたい。ヨルシカと出会った高校生の頃と比べて、今の自分は心が穢れきってしまった。それが嫌で仕方ない。寄り添い続けたこのアーティストがもし曲を作るのを辞めてしまったらと考えると、這いつくばりながら生きる必要性が揺らいでしまう。宗教の類が嫌いなくせにヨルシカを神のように扱い縋っている。この感動を味わう人間が多い事にさえ腹が立つ、独占欲まで芽生える。

ヨルシカが居れば、僕が薬塗れで地獄の様な施設の仕事で狂ってもそれでいい。まだ三回の勤務しかしていないのに飲む薬がバカみたいに増えた。別にそれでもいい。音楽が、創作が、ヨルシカが世界の美しい部分を見せてくれる。こんなクズには充分過ぎる褒美だ。ヨルシカの曲に何も感じられなくなった時にはどうにかして自殺をしたいと思う。もう誰にも愛されなくてもいいし、今以上の幸せが永劫訪れなくてもいいから、ヨルシカを愛する気持ちだけは残って欲しい。

人間自体は裏切る可能性というのが絶対的にある。けれど人間が作った創作物、ペット、薬は直接的には救ってくれずとも裏切らない。だから僕と関わる人間全員が僕を見て「気持ち悪い」と思っていると疑わずにはいられなくてもそれらに縋っていればなんとかやっていける。こんな世界でも終わっている人間に対する救いはちゃんとある。

他人に期待をするからその分期待に応えてくれなかった時に苦しむ。そんな願望は少しづつ削ぎ落としていけたら楽になれて良いなと思う。

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