見出し画像

【断片小説】インドライオンの悲劇

ねぇ、と彼女は語りかける。
初秋の、柔らかくも芯のある陽光が窓からさしていた。僕らはよく空いている時間に空き教室を見つけ、窓際の席で二人並んで退屈な時間を過ごした。2、3年前に良く流行った音楽から当時の出来事をつぶさに思い出すように聞いたり、村上春樹の古い小説から何かを得ようと読みあさったりしていた。でも、数年前のことは上手く思い出すことはできなかったし、その古い小説を読み漁ることは、無いものを数えるくらい無意味な行為だった。だって、僕にはそもそも何もなかったからだ。数年よりずっと前から今現在にいたるまで。なんにもない。きっとこの先も何もないだろうと確信めいた予感だけが僕の持ちうる唯一のステータスだった。最初からないものをなくすことはありえない。持っていなければ失くすということはない。そこに感情の揺さぶりはない。

黄色のカーディガンに白のブラウス。彼女はその季節に見合った服を着て、風景に上手く擬態し、寄り添う昆虫のように机に耳を当てていた。机にされてしまった木々の哀しみを受け止める耳を持つ、やさしい彼女。

ねぇ。
彼女は唐突に、そしていつものように語りかけた。その語り口にはある種の憤りに近い疑問が含まれていたように思う。それもいつものことだ。柔毛から滲み出る胃液のように、際限なくふつふつと噴出する疑問は、彼女を内側から溶かそうとしている。やがてそれは彼女の口から溢れ出し、空間を満たし、僕を溺れさせた。僕はいつも最初こそ戸惑うが、それが不思議に心地よかった。特にこういう秋の斜陽に温められながら溺れるのは気持ちのいいものだった。彼女の疑問に、最適な回答を与えることが出来ようと出来まいと、それは大きな問題ではなかったはずだ。少なくとも僕の中ではそうだ。この空間に溺れていればいい。やがて呼吸もできるくらいクリアになっていく。

うまく回答が得られなくても彼女は、不機嫌な顔をみせることはなかった。ようするに彼女は、疑問という卵を投げるためのいわば壁みたいなものを必要としたのだ。それは、僕みたいな聞き上手な壁だ。もし僕が卵を上手く受け止められず、割ってしまったならそれでいい。割れたままでいい。いつもほんとうにそれでいいみたいだった。

「ねぇ、ライオンってさ、3000年とかそんな大昔にもちゃんと存在してたのかな」
本日の疑問は、3000年前のライオンの存在証明について。

僕は、読んでいた本を閉じて彼女の方に向いた。

彼女はパーマのとれかけた長い髪の毛を、細長い人差し指にきつく巻き付けては解き、解いてはまたきつく巻き付けている。螺旋に巻かれた形状の記憶を、髪の毛に根気強く思い出させようとしていた。だがうまくはいかない。茶色く染められた毛先を弄ぶ眼差しは、ある種の物憂げな様子を醸し出していた。あるいは、世の中に対する最低限の関心みたいなものなのだろうか。それかあるいはやはり、憤りに近いなにかだ。

「いたんじゃないかな。古代ローマ帝国かどこかの王様は300頭ものライオンを飼っていたらしいし」
「リッチな王様ねぇ。それって確かなことなの?」彼女は机から顔をあげた。机に押し当ててていたせいで、右の耳は少し歪な貝殻のような形になっていて、赤くなっていた。やがてそれは、はらり落ちた髪に隠れた。彼女の頬もまた、初秋の陽光に温められてほのかに紅潮していたように思う。まるで風邪でも引いたみたいに。

「わからないよ。あくまでどこかの本で読んだ程度だし。確証はない」
ふうん、と彼女は言った。憤りは未だ解消されず、小さなしこりとなって彼女の胃袋のどこかを刺激しているようだった。その刺激が生み出す振動は、細かく空間を揺らし、僕をおおいに惑わした。もうじき溺れる。
「どうしてライオンなんかのことを?」
「今朝ニュースで見たんだ。絶滅危惧種のインドライオンにウイルスが感染しちゃって何頭も死んじゃったんだって。専門家チームはこのまま感染が拡がって他のライオンが死んでしまうのを懸念している。このままインドライオンは絶滅してしまうかもしれないって。世界からライオンが消え、忘れ去られてしまう。それってとても怖いことだと思わない?あたしもそれを懸念してるの」
「思うよ。すごく、とても」確かに、誰かの忘却の縁に立たされるというのは恐ろしいことだろう。
「それでこう思った。あたしが知らないだけで、忘れ去られたかわいそうなライオンが大昔にもちゃんといたんじゃないのかって。でもあんまり自信は持てなくて、君に聞いてみたってわけ」
忘れ去られた大昔のライオンを思うやさしい彼女。
「それで、僕の回答で自信は持てた?」
「可能性は拡がったよ。44センチくらいは拡がった。少なくとも大昔の王様か誰かがちゃんと記録を残してくれていたわけだし。それで皆ライオンのこと思い出せたわけだし」彼女はこめかみを細い指でかいた。
「でもなんかね、疑問はもっと拡がっちゃった」いけないことをして責任を感じる幼い少女のように彼女は俯いた。
「80センチくらい?」
「1メートル95センチくらいかな」斜陽は彼女の顔に意味深なかげりを生んでいる。表情は読み取れない。
一体どんな疑問なんだろう。1メートル95センチ分拡がった疑問って。
「1メートル95センチ分の疑問を教えて」僕は尋ねた。
「あたしが消えたり、絶滅したりしても、忘れられちゃったりしないかな、っていう不安。ほら、あたしはリッチな王様に飼われてもいないし」
「忘れないよ。人生で一番大事であろう時期の、大事な初秋の夕暮れを僕は君と過ごしているんだ。忘れるもんか。この確信は20メートルはあると思う」
「ずいぶん大きい確信ね。ありがとう」彼女は、微笑んでそう言った。
教室は、ほとんど暗くなってしまっていた。太陽は地平線の向こう側に沈みかけ、教室はひっそりとした海底のように静かだった。
確かに、彼女は微笑んでいたはずだ。それから――、小さなくしゃみをした。その音は、彼女の疑問で満たされた、彼女自身の持つ空間に響き、染み渡ってやがて消えた。でもその音は、不安と手を取り合って僕の鼓膜に妙にいつまでもしがみついていた。
 


残念なことに(と言うべきだろう)、そして街角で取り沙汰されるよくある話みたいに、僕は彼女の名前をやがて忘れてしまった。3000年という長い年月も経っていない。たぶんほんの5、6年だと思う。忘れてしまった。大きすぎる動物が、気候変動に耐えきれないままに絶滅してしまったみたいに。言い訳に過ぎないだろうけれど、僕だって忘れたくて忘れたわけじゃない。リッチな王様でもなかったし、彼女を飼っていたわけでももちろんなかったから。色んな環境に耐えつつも忘れまいとはしてきた。そして気付いたら大人になっていて、忘れてしまっていたのだ。忘れまいという強い意志が、逆に彼女の表情や名前や輪郭や、髪の毛のパーマやその他諸々を損なってしまったのかもしれない。


あるいは、本当は僕はとんでもない嘘つきで、あのときの約束は口から出まかせそのもので、彼女のことを忘れたかったのかもしれない。いつ終わるのか分からない、出口も見えないだらだらと繰り返されていく午後の夕暮れの時間をやめにしたかったのかもしれない。オーケー。幸か不幸か、それは分からないけれど彼女の名前を忘れてしまった。顔も忘れてしまった。これは紛れもない事実だ。抗うことのできない宿命だったといってもいい。思い出せるのは、トーンだけだ。初秋の斜陽に火照る、小さな貝殻のような耳とか、いつもの疑問とか。その心地よさとか。
でも、あのときの初秋からずっと、僕はひどく呼吸が苦しい。時折喘息めいたり、過呼吸めいたり。僕はあれからずっと、彼女の存在しない、彼女の空間で溺れたままなのだ。

よろしければお願いします!本や音楽や映画、心を動かしてくれるもののために使います。