見出し画像

ひそひそ昔話 -その8 ふと、見上げた夜空の星たちの光-

全国大会、舞台袖。
誰も彼も妙に落ち着かないそぶり。
指を開いたり閉じたり、肩を回したり、首を回したり、深呼吸を繰り返してそのそぶりを誤魔化してみたり。
身体がこわばっては出る声も出ないし、伸びる音も伸びていかない。我々は客席の一番向こう、非常口の誘導灯の下で腕を組んで立ち見をしている人の心にまで、曲の想いを届けなければならないのだ。
そっと後ろから手が伸びてきて、僕の肩をほぐし始める。みんな緊張している。僕は仲間の手のぬくもりを肩に感じながら、夏の終わりに両親に買ってもらった革靴がピカピカに磨かれていることを確かめる。大丈夫だと思う。そう思うんだ。

バスパートは誰よりも早くステージに上がる。審査は入場から始まっているのだ。少しでも印象を良くしようと思うのならば、背筋を伸ばし、目線を上げ、自分がその世界の代弁者であるかのような振る舞いで堂々としていなければならない。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕は自分の低すぎる声をずっとコンプレックスに思っていた。バレーボール部の副キャプテンであるのに声が通らない。指示が通らない。「お前のせいでチームプレーがうまくいかない」なんて後輩から揶揄されたこともある。そんなバレー部も順当に、と言うべきだろうか、中体連で一回戦で敗退し、もちろん敗者復活戦でも負け、バレー生活には幕が降ろされた。必要とされない生活が終わりを告げることは、なによりも嬉しいことだ。牢獄のような時間からの解放である。

週明け、担任の先生(合唱部の顧問)に呼び出される。そういえば、隣のクラスの合唱部員が時折体育館まで勧誘しにきてたことを思い出す。体育館の下の小窓から顔を覗かせ、言ったんだ。「お前の声が必要なんだ」そのことだろうか? 

「明後日、水曜から練習来なさい」と、有無をいわせない口調で先生は言う。
そのようにして6月頭、梅雨の切れ間、朝づゆを花びらに躍らせる紫陽花が瑞々しい青空の季節、僕の合唱人生が唐突に始まった。

聞けば、今年合唱部が選んだ曲は、中学合唱向けとは言えないほどの難曲だったらしい。中学生向けとは言えない理由の一つに、バスパートの最低音が五線譜を飛び越えていることが挙げられる。LowE♭。目の前にピアノがあるのなら触れてくれればいい。真ん中のドの2オクターブ下のドから1音と半音上がった音だ。そして、僕にはその音を出すことが出来た。そもそも地声がその音だから。
とにもかくにも、僕は僕自身を必要としてくれる世界へ足を踏み入れたわけだ。

◇◇◇◇◇◇
そこからの5ヵ月間は、今もって人生のピークであったと言ってもいい。色んな思い出や喜怒哀楽の灯がその時代に輝いている。大切な大切なゼロ年代後半。2008年の夏秋の青春。時間が経つほどその輝きは増していく。今でも友人と鍋でもつつきながらその話をする。額縁に入れて飾ったり、ガラス張りのショーケースに入れて取っておきたかったその輝きは今、どこで輝いているのだろう? なんてね。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ホワイトボードに歌詞を並べ、この言葉がこの世界の一体何を告げ、この行間がなぜ口を噤んでいるのかを日が暮れるまで語り合った。それが一通り解釈されると、それを最も効果的に表現できるように技術的な練習を重ねた。朝誰よりも早く登校して音楽室へ向かうこともしばしばだった。まだ朝も早いと、真ん中に置かれたYAMAHAのグランドピアノは、その口を閉じてまだスヤスヤと眠っているようだった。昼は弁当を光の速さで食べ、また音楽室へ。合唱とは水泳のような個人の競技でもないし、バレーのようにチームプレーというわけでもない。我々はたくさんの口を持ち、複数の音階の声を持つ巨大な生命体のようなものだ。一心同体なのだ。音楽室に行けばみんないた。

中学3年生の夏休みというのは受験生の多くがそうであるように、一つの正念場である。だけど予備校の夏期講習を無視し、僕が向かったのは校舎の三階、フローリングがつやつやに輝いた音楽室だった。相似や三平方の定理なんてものはどうでもよく、200グラムの水溶液の濃度など僕の知ったところではなかった(幸いなことにそもそも僕の成績はどの教科においても、とても良かった)。

休日になると体育服に着替え、武道場で身体を鍛えたり、構内をみんなでランニングしたりもした。コンクール当日になると、女子はみんな前髪を上げ、男子は皆そろいもそろって髪を切ってきた。いい演奏に、必ずしも結果が伴うとは限らない。いわゆる「ダメ金」ってやつもある。でもあまり良くできなかった演奏にも結果が悪い顔をするとも限らない。ピンチだと思ったものの後ろ姿がチャンスそのものだった、ということだってある。そのようにして次のステージを見つけていった。紆余曲折、一喜一憂しながら、僕らは旅をし、歌を歌ったんだ。 
全国ツアーをするロックバンドのように、真実を解き明かす砂漠のキャラバンのように。

◇◇◇◇◇
ふたたび、舞台袖。
少しだけ腫れぼったい目をこする。
昨夜、最後の練習が終わると、僕は泣いた。みんなまだそこにいるのに、明日が終わってしまうと消えていってしまうような気がしたからだ。ホテルのチャペルが最後の練習場所だった。チャペルも、新婦の父親以外で泣き崩れた人間を見るのは初めてだったかもしれない。
僕の涙が連鎖したのか、みんなでぐっしょり泣いた。
自我が芽生え、社会や大人に少しだけ反抗し、自己のアイデンティティがなんであるかを模索して彷徨いがちな幼い少年少女たちの魂が、ただ一つの光に向かって飛んでいく、というのはそれだけでもう奇跡なのだ。その奇跡の灯がもしかしたら失われてしまうと思うと寂しくて悲しくて、虚しくてやりきれなくて仕方がなかった。

先生は言った。
「みんなの声が光の糸みたいになって、ステージの真ん中で絡み結びついて、大きな光の玉をつくるの。その輝きを、会場の皆が見つめるの。そういうイメージで声を合わせなさい」
部のスローガンは「みんなで見る夢は現実となる」だった。
全国大会の会場へ向かう大型バスの車内、喋って声を嗄らしたりしないようマスクをした僕たちの心の内に敷き詰められたのは、そういったイメージやスローガンだった。
そして、この扉が開けば、夢は現実になるし、光の玉を二階席の座り疲れている審査員にも見せてあげられる。なにより、僕らはステージの上で、みんなで歌いたいのだ。


ドアマンが重い扉を開ける。照明が舞台袖の赤い絨毯を照らし、世界が放たれる。

僕らは、ステージへ踏み出す。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ふるさとの居酒屋から出て、友人と見上げた夜空に星が瞬いていた。いくら南国・宮崎と言えど、夜は冷える。ラクダから降りて、砂漠の感触を確かめ、自分の居場所を探る旅人的面持ちで地面を踏む。それから、なんとなく夜空を見上げたんだ。星の輝きを頼りに、歩みを進める旅人の気持ちが、なんとなくわかった気がした。

何にもないあの田舎の夜空に浮かぶ星のひとつひとつはきっと僕らの、手元に置いてショーケースに飾っておきたかった輝きを持っていて、二度と、この手には落ちてはこない。まぁでも、見上げりゃ綺麗だもんな。悪くねぇよ。何億光年と手の離れたところで燃え続けてんならそれで結構だ。一等星の輝き。奇跡の灯。その星々を繋げて名前を付けてあげるならば、それはひとこと、青春だ。

この記事が参加している募集

よろしければお願いします!本や音楽や映画、心を動かしてくれるもののために使います。