記憶の固執

11/16の日記~北風と太陽、サルバドール・ダリ、書庫群~

 かび臭い冷風をいつまで経っても吐き出し続けてきた三田線でも、ようやく暖房が効くようになった。それは早朝の地下鉄のホームに蔓延る、人々の諦めにも似た生ぬるさだったが、ないよりはマシだ。列島から退去するよう秋に差し向けた最後通達のようなものかもしれない。冬将軍がシベリア寒気団を携えて訪日するので、社会はそれの準備に入らねばならないからだ。

 このところ、時間を見つけては散歩をしている。今日の皇居東御苑も、高層ビル群の中で、ひときわ異彩を放っていた。皇居の上に広がる空は広い。皇居の敷地そのものも広く、ボイルされてもはや形を維持できない時計盤のように都心に横たわっている。それで私はその巨大な文字盤を時計回りに散歩することにした。サルバドール・ダリが示すように、そこには記憶の固執みたいなものがある気がしたからだ。

 右側の皇居側からは太陽が熱心に光を浴びせ、左側の車線からは北風が排気ガスを纏って吹いていた。冷徹で姑息な北風と、慈悲深く愚かな太陽が私を獲物にまるでゲーム・ショウでもしているみたいだ。

 何人もの皇居ランナーが向こうからやってきて私を追い越していく。反時計回りに皇居を走っているのだ。この国に住む社会人のうち、いったい何人が平日の真昼間から皇居の周りを走ることなんてできるんだろう? そういうフレキシブルな人間がいる一方で、蟻のように働く私は、意味も分からず、そういうものだからとネクタイで首を絞めて日比谷近くまで歩こうとしている。巨大な時計盤の上を時間と一緒に歩いているというのに、一向に事態は好転しない気がした。”時間に逆行する”ランナーの方がなんだか挑戦者的趣をきらきらと放っている。

 令和になって文字通り時代が変わって、税率が変わってさらに加速度的に時代が変革していくような気がしている。パソコンのチラチラとした液晶画面には、良いニュースしか期待してないというのに、悪いニュースに不意打ちバックハグ(というよりスリーパーホールド)され、そのせいで視力は低下する。放火や殺人やひき逃げや望まれてもいないオリンピックなんかだ。ヒットチャートを駆け上っては急降下していく人畜無害な音楽を大音量で聞くから、聴力は削がれていく。視力は落ち、聴力が削がれ、判断力は曖昧になり、魂とも呼べる何かが霧消していく。そうやってじわじわと損なわれ続けているように思える。記憶の固執のせいでもある。

 スウィングするスパイダーマンをビルの谷間に見つけられなかったのは、それが架空の存在だからという当たり前な理由からではない。宇宙ステーションにドッキングするロケットの音を聞くことが出来なかったのは、宇宙に空気がなかったことが全てではない。今でも、あの醜い大人の言葉に惑わされているのは、抗体の数が圧倒的に少ないからだけではない。なんだか夢も希望もないみたいじゃないか。

 左側の八つの車線の向こう側に威風堂々と立ち並ぶ高層ビル群を見ていると、巨大な書庫群が立ち並んでいるような錯覚を覚える。たくさんの人々がひしゃげた栞のように、その書庫のような高層ビルひとつひとつ、文庫本のように整列されたその部屋ひとつひとつ、個室ひとつひとつに挟まれていく。本は一旦閉じられ、彼らの時間は止まるのだ。私は、それを、ぼんやりと、ただ眺めていた。

 40分間の散歩で、私は脇の下にじんわりと汗を掻き、袖を肘の辺りまでまくった。社会の傾向から鑑みるに汗を掻いて許されるのは、せいぜい小学三年生くらいまでなんじゃないかとさえ思う。あるいは、アスリートくらいのものだ。丁度私のそばを風のように通り抜けていく、この精悍な皇居ランナーたちみたいな。

 なにはともあれ、一見するとゲームは太陽の方に軍配があがったかのようだ。小さい無数の針の集合体のような(姑息な)北風が、汗で濡れた私の肌を震え上がらせる、少なくともその瞬間までは、勤勉な行司は右側に軍配を上げているみたいだ。

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