「春の譜」 短編小説
最前列で君に手を振る。
モニターの中で歌う君に、僕は現実の世界から手振るんだ。
ヴァーチャルの身体は、箱の中に隔離された空間で本物になる。
君が歌うその一瞬、その場所は本物の光に輝き始める。
僕が座っているこの場所は、君がそこにいる間だけ、仮想空間に同居して、君の最前列に行くことができる。
鳥の名の衣装を着た君に連れられて、僕は少しの間だけ現実を離れることができるんだ。
わけのわからないウイルスに満たされた現実は、人々が出歩ける場所ではなくなった。博物館は閉まって、陶器市は延期になった。
ウイルスを恐れた人は、家の中にこもって、自分を現実から隔離する。
けれど四角い枠に隔離された画面の中だけは、今まで通りに人と会える。
言葉を交わすことができる。
君の歌を聞いた僕たちは、言葉を交わしてこの場所を盛り上げた。まるで現実だと錯覚してしまうくらいに。
見知らぬだれかと、君の力を借りて言葉を交わすんだ。
本当はもうすぐ春が来るけれど、花たちには新しい楽譜を演奏する場所がない。
いつもはその美しさを讃えられる桜でさえも、今年は寂しく咲いている。
僕たちの所に、春は来ているようで来ていないんだ。
けれど僕たちは、仮想の世界で春を感じる。
電子が生み出した幻想の中で、僕たちは君が見せてくれる花の輝きを見る。
碧い空に、桜の花弁が舞い散る様子を、確かに見たんだ。
そして僕らは語り合う。
隔離された仮想の中で、現実のように君のことを語り合う。
ちょっとあとがき
一週間の内で、一番心に残ったことを書く短編。
今週は、花譜さんの無観客ライブでした。
最後までお読み頂きありがとうございます! 楽しんでいただけたのなら幸いです。 よい1日を🍀