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推しを家族と対比して考察する

昔はvtuberとかアイドルとかが裏で誰それと付き合ってるって知ってキレてる人の気持ちが分からなかった。
「ええー。なんでなん?
君等が推してるやつのファンなんて無数におるやん。
そん中のワンオブゼムに過ぎんやつが付き合えるって思ってるのっておかしくない?」
みたいに考えてた気がする。
でも「風の谷のナウシカ」で、宮崎駿がナウシカが誰とも付き合うことがなく世界の平和に自分の身を捧げて生きていくって設定をつけたってことを知った時に、その考えが覆った。
オタク達の気持ちが理解できたような気がした。
「そうか、推しと自分が付き合えないって知ってキレたんじゃないんや。
推しが裏では生身の人間であって推しには推しの人生があると知った時に、その推しを偶像たらしめるイメージに傷がつく、崩壊しうるかもしれないことにビビってキレてるんや。」って思った。

誰のものでもなく皆の推しとして存在している時にのみ推しには価値がある。
また推しには推しとしてのイメージを維持すること、役割を遂行することを僕らは求めてしまう。
生身の相手なことや、弱いところや欠点があることは僕らは求めていない。
それらがあると知っても動揺したりしないのは、イメージの邪魔にならない場合に限る。
例えば可愛げを増してくれるもの、良いギャップを生んでイメージを補強するアクセントになりえるものみたいな。
Vtuberは裏に生身があるのがある種の魅力を生むけど、ほんとに生々しいものを出されると引いてしまう的な?

でもそれは僕らが勝手に投影する理想であって、現実はそう上手くはいかない。
推しはやっぱり生身の人間で、彼らには彼らの人生がある。
だから彼らに推しとして在り続けるよう求めるのは身勝手だし無理があるんだよな。

でもそれもある意味推してる側は分かってるんだよね。
で推してる側にとっての価値観としては、生身の人間としての推し<推しのイメージっていう図式がある。
だからそのために推しを殺すようなことが発生する。
ジョン・レノンが銃殺されたのもそんな感じやったように思うし。
坂口安吾が「堕落論」で「昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼等が生きながらえて生き恥をさらし折角せっかくの名を汚す者が現れてはいけないという老婆心であったそうな。」と書いたのもさっきのロジックに当てはまりそうな気がする。
推しのイメージは推しの命や人生より大事っていうのは他にも色々当てはまる例がありそうやな。
ディズニー、俳優、声優、宗教の教祖、天皇などなど。

そん中にはクリエイターとかもありそう。
漫画家とか絵描きみたいな。
俺は好きな漫画家にはあんまりSNSやらんといて欲しいなって思う。
漫画家は読者としての俺にとってはあくまで漫画を書く人やから、Xでクソリプ飛ばしたり過激なポストしてたりして「ああこういう人が書いてるんや。」ってなったら嫌やな。
やから俺はあんまり好きな漫画家のSNSは覗かんようにしてる。
そういう距離感を持たせる、推しの脱人間化をすることで作品に没頭できるようにしてる。

じゃあnoteを書いてる俺ってなんなんやろみたいにも思うなー。
クリエイターか?って言われたらそんな大層なもんじゃないって思う。(当たり前)
俺が好き勝手なことを好きなだけ言語化するために始めたから、面白い面白くないとか関係なく自由気ままにやってるし。
あとnote書いてる目的は家族やシェアハウスの同居人みたいな身内に対しての生存報告的なところがあるから。
作品としてのnoteじゃなくて、生身の俺が伝えたいことを映す媒体としてのnoteになってる。

思えば身内は推しの逆的な存在なんかも。
存在を無条件的に肯定してくれるっていう感じがある。
シェアハウスの同居人とかも、最初はこいつ面白そう、頭良さそう、行動力あるって思って付き合ってたけど今は一緒にいる意味を忘れてるようになった。
もちろんそういう魅力は消えたわけじゃないけど、それが一緒にいる理由では決してなくなってしまった。
向こうも俺のことそう思ってるだろうし、俺のダサいとこ、やばいとこを今までに見せすぎたから心理的安全性を高くして一緒にいられる。
noteもそんな感じでリラックスして書いてる。

でもやっぱ好きなこと書いてるとは言え、なんでも書いてるわけじゃないんよな。
身内と言えど親しき仲にも礼儀ありで言わへんことやっぱあるし、それにここはSNSで不特定多数の人が見る公共の場やからな。
だからある意味クリエイター的な色々弁えた振る舞いをしやなあかんのやろなって思う。
そうやって配慮したり頭を使って書くのもそれはそれで楽しいって感じてる。
やからまあバランスやな。
バランスを保って書いていけたらええなあ。

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