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気持ちが根付くマチ。


田舎の風景に差別化をはかる。

そんな気概がないものかと、

常日頃、思うんですよね。


あぁ、あそこがツブれたなぁ。

どうなって、何ができるんだろう?

また駐車場か、つまんねぇの。


こんな感じで、面影すら更地にして

景観をコンクリートで埋め尽くす。

それが全国的に変わらぬ

田舎の風景だろう。


なんだか、お金のチカラに負けて

次々と風景を形骸化させながら、

そこに住む人々の快活さをも奪っていく。


いわゆる、むかしからの繁華街は

ゴーストタウンと化していて、

クルマ社会に呼応するように、

バイパス沿いには代わり映えしない

飲食店が供給過多まるだしで立ち並ぶ。


むかしの繁華街は細々とそれでも

これしかないから、とばかりに

生き永らえようとする。

その表情は寂し気で、覇気もない。


客を呼び込むにも万事、手を尽くして

もうやりようがないといった感じの、

あきらめムードが漂う。


それぞれの市町村でも工夫は凝らしている。

でもなんだか、ポイントがズレていて。


新しい試みに誰もなびいてこないまま、

結局は民間に流すと更地にしてコンビニ、

駐車場、ドラッグストア、飲食チェーン店。


利用したくなるような、そこでしか

できないような「体験の場」を

考えてみる発想の転換がないものか。


想定どおりのプランに市民はいつも、

またかと落胆し、何処にでもあるし、

わざわざここに来る必要もないよなと

無下にされてしまうだけ。


他の場所でもできること、

叶えられることなんだったら、

わざわざ足を運ぼうとは思わない。


ましてや、流行りに乗る愚策などは

もう笑う気にもならないほど。


しかし、無難に無難を重ね着するように

ワクワク感のカケラもないマチの風景。


幼い頃の記憶を容易に書き換えてしまう、

なんともいえない寂しさばかりが

募るだけの街並みに変えてゆく。


マチをつくるのは誰だ?

離れたくなるマチをつくるのは。

本当の市民の声は聞こえているか?


中の下のセンスの鈍痛がずっと続く。

いや、これだけ続くと痛いことすら忘れる。

それくらい地味~に間違い続けると

間違いにも気づけなくなる。


市民自身が動かすほうがいい。

行政や企業では結局ワンパンチ足りない。

アイデアが当たり前すぎて工夫がない。


彼らは失敗や成功、損得のフィルターで

通したものしか頭の中に残せないから。

途中で大事なヒントも捨ててしまっている。


全国どこでもそうですけど、

こなす人ばかりで、整える人がいないから

人を活かせていないんですよね。


いままでにない情が宿るような

「気持ちが根付くマチ」を。

何度となく、来たくなるマチを。


マチが好きになれば離れていかない。

好きになれば良くしたくて

協力したくなる「もう一歩」が

出やすくなる。


かつての賑わいを取り戻せないのなら、

かつての人々=お年寄りたちが残したい

地域の心象風景を可視化してみたり、

伝え残していくのも大事な使命。


その地域ならではの発想での

伝承の仕方が、もっとあるのではと思う。


そしてそれは、

まちおこしじゃないところから

火がつくとおもしろくなる。


そのほうが意外性が上がった状態で

受け入れられるから。


その地域の特性があればこそ、

他の都道府県からも、あるいは

世界中からも体験したくなって

訪れるようになるのではないのか。


単純なようで単純じゃないけど、

損得の商品を入口に呼び込もうとすると

なかなか興味持ってもらえない。


物があふれる時代にすべき

「つかみ」は何か。

物を「つかませない」ことではないか?


たぶん、デジタルでもない。

新しいものを取り入れるやり方は

ちまたにあふれすぎているから。


古いものを懐かしむという感情に

スポットを「うまく当てられるか」

ということに伸びしろがありそう。


心の奥底にある、古くても心には

新鮮によみがえるような、

セピア色の心象風景を

我がマチにも残してみては?


私たちができること、残すことを。

伝えること、託すことを。

私たち自身でなければできないことを。


あぁ、コラムっぽい(笑)






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