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ストレスの違いと2度目の鮮度。


スガはちょっと冗談を言うときは

少し気持ちがラクなとき

なんでしょうね。


自分の昭和の東京五輪の

思い出話をしつつ

開催して良かった

と思ってほしい。

その気持ちをわかってくれ

とでも言いたげな感じで。


やってよかったと思えるかどうか。

昭和時代とは比較にならない

娯楽の差がある現代。


1964五輪で通用した戦法は

通用しないという予測はできないのか。


おそらく予測はできるけど

そのパターンにスガろうとするしか

現状を壊さずに進む道はない

そういう退路の断ち方でしょうね。


感動する「材料」自体がなかった

それが1964年のころである。


あの時のテンションと2021年の

テンションを冷静に分析したら

わかる話ですよね。


快適な生活を当たり前に謳歌し

曲がりなりにもずっと続けてきた。

その生活が1年間も制限された。


このストレスは昭和五輪のときと

質が違うと思うんですよ。


戦後の「ずっと貧乏」から

光が差し込みはじめ、

鮮やかに成長曲線を描こうとする

あの時代の勢いと現代との比較では

逆光と暗闇くらいの差がある。

ちょっとたとえが違うな(笑)


はじめてスマホを持った人が

使い方を覚えて、生活がどんどん

変わって楽しく、充実していく。


その楽しさ曲線が描くテンションは

割と簡単に想像がつくし、

誰しもそれなりに良かったと感じる。


これが昭和の1964五輪で

大衆が受けとった五輪の効果だろう。


低いところから、高いところへ。

社会全体も上がっていく波に乗る。

気持ちは上がりやすい状態でしょ?


それと対照的な現代の令和の五輪。

スマホはひと通り、やりつくした感。

あとは速くなったり快適にするだけ。


もう目新しいものもなく、当たり前で

特に感動のない、2度目の鮮度。


データ無制限であらゆる日常を楽しむ。

それが当たり前になっていた人間が

コロナによって急にデータ制限プランに

1年間無理やり、毎月1ギガにさせられた。


これ自体が相当なストレスだろう。

ワタクシ自身は2ギガも使わないが(笑)


スマホどっぷりの人間を想像すると

相当なストレスであると思う。


日常レベルが高いところから

低いところへ。

プラスでコロナという

パンデミック。


令和の2021五輪は

1964五輪とは

まるで状況が違うのだ。


つまり状況がまったく違うのに

同じパターンで狙おうとしてる。

これを愚策と言わずになんという?


別の話でいうと、そうだな。

ワタクシの母の話だが、

もう10年以上も前の話。


京都に旅行に行って、嵐山かな。

かなり長い距離を歩いて

休もうとして、お茶を飲もうと。


「綾鷹」を見たことがなかったらしく

初めて飲んで美味しさに感動したと。


ワタクシにお土産だと言って

綾鷹を「京都のお茶」だよと言って

ニコニコしながら渡してくれたが・・・


ワタクシはその当時も

よく見かけて何度も買ってたし。

なんなら結構、飲んでいるお茶だった。


「母ちゃんよ、これはこっちでも

ふつうに売ってるし、結構前から

飲んでるよ、笑」というオチの話。

ヘタだなぁ、エピソードトーク(笑)


母にとっては京都に観光に来て

楽しい、たくさん歩いた、喉の渇き。

そして京都で見たこともないお茶。


京都ブランドのバイアスもかかり

その時に飲んだお茶の味は

想像するまでもなく格別だろう(笑)


10年以上経ったいまでも

綾鷹を日常的に飲むようになっても

あの時の味ほど美味しかったお茶は

ないねと、事あるごとに話す。

母の鉄板トークのひとつである(笑)


このように、2度目以降は鮮度が落ちる。

そしてコロナ禍というさらなる枷(カセ)

想像するまでもないでしょう。


五輪をやっても昭和五輪のような

感動や高揚感、ポジティブさは

得られないことが確実である。


コロナ以前からの停滞感と

困窮へちょっとずつ進んでいながら

誤魔化し続けて回してきたところへ

コロナでドーン!である。


もう限界で、同じお茶でも感動しない。

美談を掲げれば乗り切れる

そんな時代やレベルの話ではない。


サッカー日本代表だってそうです。

フランスワールドカップの予選。


最後のジョホールバルの奇跡までの

その軌跡を知る人ならば

あの感動や興奮は開催国としての

2002年でも超えられていない。


やっぱり2度目以降の鮮度は

初めての感動を超えられないんです。


しかし同じパターンを踏襲して

かつての成功のパターンを描く

スガにとっては、そこにしか

開催にこぎ着ける道はないのだろう。


それは求められていない欲を

叶えようとするだけ。

いま別に腹減ってねぇよという。


やるんだろ、やるんでしょうよ。

でも同じパターンでは通用しない。


現代にあった補正が必要で

その補正するチカラがない。

現代の政治家には

難しい話だろうと思う。


あとは民間の自主性を促し、

補償を続けていくしか道はない。


歩けなくなっていく人に

車いすを用意するのではない。


歩けなくなっていく人に

なにくそ、負けてられるかと

自分で歩こうとする意欲を

支えるのがこれからのやり方。


そうしないかぎり、浮上もしない。

維持もできないで下がり続ける。


どれだけ車椅子を用意するつもり?

コロナ禍、そして五輪後を考えると

歩く意志を支えるパターンに変える

いまこそ、いい機会だと思いますね。


もう綾鷹ほどお茶を濁すことは

できませんよ。

もっとうまいお茶じゃなく

オチはないのか(笑)

これで精一杯だ・・・・




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