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私が教師にならない理由

私は学校教員を育てる学校で学んでいる。
しかし、この春就活をし、学校ではなく、地元の企業に就職することが決定した。

私は教育実習を通して「教師にならない」と決断したのだが、採用面接で決まって訊かれる質問は、「なぜ教師にならないのか」である。
これに対する私の答えは、「今の学校教育では、日々の中で子どもの行動を制限せざるを得ないから」なのだが、実はもう一つ、敢えて言わないでいる理由がある。それは、「私には子どもに対して『こうなってほしい』という願いがないから」である。

今回は、前者の理由はさておき、後者について色々と思うところがあるので書いていきたい。

私は教育実習で、指導教官に「その授業を行うことによって子どものどのような成長を目指すのかを必ず明確にして、授業をしなさい。そして、その授業で行う様々な活動も、その目標を達成する過程で必要なものとして、行う理由を明確にして行いなさい」と言われていた。
この書き方だと抽象的で分かりにくいと思うので具体的に言うと、例えば以下のようになる。

道徳科 題材 : 外国からの友だち
目標 :「異文化を尊重する心」を育むこと

活動①教師が子どもに外国の写真を見せる
目的 : 外国への興味関心を引き出す

なのだが…
この活動①の時、肌の露出が多い民族衣装を着た外国人の写真を見て、子どもが「エッチー!」と言い出し、それが教室に伝播して騒がしくなった。

この時、教師はこの発言を無視してはならない。なぜなら、この授業の目的が「子どもたちの異文化を尊重する心を育むこと」、ひいては「子どもが他人を尊重できる人に育ってほしい」という教師の願いがあるからだ。上記の発言は、その対極にあると言ってもいい。
「エッチって、なんでそう思うのかな?この人たちにとってはこの衣装を着ることは普通なんだよ。それをエッチって言うのは、いいことなのかな?」このような問いかけをする必要があるだろう。

このように、教師は常に子どもに「こうなってほしい」という願いをもって、それを原動力に、目的の明確な指導をすることが必要とされているのである。
ここで話は冒頭の「私には子どもに対して『こうなってほしい』という願いがないから」というところに戻って来る。

そう、私には子どもの成長に対する願いがない。別に子どもが少し身勝手なことをしようと、それは子どもならではの良さではないかと思ってしまうのだ。子どもは大人になるにつれて、否が応でも他人の目を感じるようになり、自我を抑えて常識的に振る舞えるようになる。悪く言えば、大人になるにつれて抑圧されていくのだ。そう考えると、子ども時代に無理に圧力をかけ、「良い子」に、完璧に育てようというのは、貴重な子ども時代を大人が無駄にしているように思えてならない。

そういう訳で、私は教師にならない道を選んだ。 

しかし、私は指導教官が言っていたことは、間違いなく正しいと感じている。教官に賛同して私は、教師には「子どもの成長に対する願いを常に持ち続けられる」資質が求められると考える。
近頃は、授業である活動を行うこと自体が目的になってしまい、その活動によって子どものどのような姿を目指すのかが明確になっていない教師も多いという。

教師の「心」が全ての教育の原点にある。

だから、そういった教育への「心」を持っている教育学生には、それをめいっぱい教員採用試験でアピールしてほしいと思う。(思想を面接で話すと、「指導が入らない頑固者のレッテル」を貼られるかも…と恐れないで!!そうやって教育を奥深くまで考え、希望を見出しているあなたはとても素晴らしいから。)

先生のタマゴたちへエールを込めて



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