「ポケモン」に憧れ、いつしか「ポケモン」を忘れた大人たちへ 「名探偵ピカチュウ」感想
これは、初代「ポケモン」に触れポケモンマスターを目指していた少年(筆者)が、いつしかポケモンを忘れ、大人になり、そして「名探偵ピカチュウ」を鑑賞して再び人生を見つめ直した話です。
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「名探偵ピカチュウ」は、“自分がポケモン世界にいる”、そのことの幸福感を全身に刻み込んでくれる傑作だ。
CGで創出されたモッフモフのピカチュウは目の玉が飛び出るくらい可愛いし、ポケモンと人間が健やかに共存するライムシティの光景は、自分が子どものころ夢想した楽園そのものであった。
今作は、やがて成長し大人になった“かつての子どもたち”の胸の扉をノックし続け、“あのころ”に忘れてきてしまった宝物のような記憶を鮮やかによみがえらせる。
■自分がこの世界の主人公だと疑わなかった、あの日々
僕は小学校低学年で、シリーズ初代の赤・緑を経験している。地元にあったゲームショップで、当時発売したばかりのゲームボーイポケットとともに緑を買ってもらった。
毎日、学校から帰ると矢も盾もたまらず、一目散にゲームボーイの電源をつけた。2.51インチの画面のなかに広がる冒険に、僕はすぐに夢中になった。
ゲームの類は何もかも「ファミコン」と呼ぶくらいの理解である母親は、小さい画面を食い入るように見つめ「キエエ、ヒトカゲじゃタケシに勝てない!」とか叫ぶ息子を、当然、白い目で見つめていたことだろう。
「もうやめなさい!」。母親から叱られると、僕はしぶしぶプレイを中断したが、ほとぼりが冷めると隠れるように再び電源をつけた。
図鑑は姉のカセット(赤)をこっそり拝借し、せっせせっせと捕獲に励んでいた。コロコロコミックに掲載された「東京ビッグサイトでミュウをゲット!」的なページにはテンションが上ったが、自宅からビッグサイトまでは小学生には遠すぎた。
結局、あれは「大技林」だったか、何かの裏技本に載っていたバグ技でミュウは入手し、そのほかのバグ技も駆使してなんとか151匹コンプリートにこぎつけた。友だちとの対戦では、“あの裏技”でレベル100に強化したミュウツーを繰り出しドヤ顔をしていたりした。
もちろん「青」も買った。「ピカチュウ」バージョンは買わなかった。フシギバナやリザードンやカメックスが佇む当時のパッケージ。あれを思い出すと、未だに胸がなんとも言えず疼く。
数年におよぶ、高橋名人が大人の対応ができなくなるような膨大なプレイ時間のおかげで、視力は急落した。以来、メガネとコンタクトレンズが手放せない生活を送っている。
アニメにも熱中した。主人公の名前がレッドではなくサトシであることに少々の不満を感じながらも、毎週欠かさず視聴を続けていた。
しっかり「ポリゴンショック」の回も目撃し、テレビにかじりついていた僕は七色の光に当てられ、無事、具合が悪くなったりした。
いつか自分もサトシのように旅に出て、ポケモンマスターになる。そう思っていた。
あのころの僕のなかでは、ポケモンの世界はただのゲームという枠を逸脱し、自分の世界のなかに間違いなく、確固たる割合いを占めて存在していた。
1990年代の多くのキッズたちが経験したであろう感覚。自分自身がこの世界の主人公だと疑わなかった、心温まるあの日々のエピソードだ。
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それから小学校高学年になり、Nintendo64の「ポケモンスタジアム」や、続編となる金・銀もちゃんと買った。一通りプレイし、それなりに熱中した記憶はある。たしかクリスタルも買った。
しかし、それ以降のシリーズには手を出さなかった。いつの間にか、プレイするゲームはドラクエ、FF、ファイアーエムブレム、ゼルダの伝説、バイオハザードなどに移り変わっていた。
年齢が上がり、思春期を経るうちに、ポケモンとはなんとなしに疎遠となっていった。なぜなのかは、うまく思い出せない。多分、大した理由はなく、「成長」の一言で片付けられる変化だったのだと思う。
それくらいごく自然に、そして今にして思えば不思議とも感じられるほど唐突に、ポケモンは僕の世界から姿を消した。
「名探偵ピカチュウ」は、そんな経験をした僕の記憶を強く刺激した。言い換えれば、これは“僕のための物語”だった。
■ポケモン世界に自分が存在する、そのことの多幸感と疑問について
劇場公開から時間も経っているし、テレビ放送もされたので、本作を鑑賞済みの人も多いだろう。が、念のため物語を引用しておく。
子どもの頃にポケモンが大好きだった青年ティムは、ポケモンにまつわる事件の捜査へ向かった父ハリーが家に戻らなかったことをきっかけに、ポケモンを遠ざけるように。ある日、ハリーの同僚だったヨシダ警部から、ハリーが事故で亡くなったとの知らせが入る。父の荷物を整理するため、人間とポケモンが共存する街ライムシティへ向かったティムは、自分にしか聞こえない人間の言葉を話す“名探偵ピカチュウ”と出会う。かつてハリーの相棒だったという名探偵ピカチュウは、ハリーがまだ生きていると確信しており……。(映画.comより https://eiga.com/movie/90321/)
この作品の何が僕の記憶を強く刺激したか。それは、子どものころに夢想した“ポケモンが身近にいる世界”が、途方もない“現実感”で描かれていたからだ。
主人公のティムがライムシティに足を踏み入れる序盤のシーン。あれを目の当たりにしたときの多幸感は忘れられない。
林立するビルの間を気持ちよさそうに飛ぶウォーグル。4本の腕でテキパキと交通整理を担うカイリキー。戯れるように消火活動にあたるゼニガメたち。その辺のベンチに座ってコロコロしているヤンチャムとゴロンダ。
正直、知らないポケモンも多かったので、初鑑賞時は「何なのあのポケモンは」となったりもした。ともあれ、子どものころの自分が体験したかったポケモンの世界が、今僕の眼前のスクリーンで展開されていることに、僕の心は躍った。
視界いっぱいに広がる画面は、視界がその映像のみで占められるため、「自分がそこにいる」没入感をえぐいくらいに喚起した。つまり、本作鑑賞中、僕は確かに“ポケモンがいる世界にいる”感覚をビンビン感じることができたのである。
これは多くの人がすでに語っている体験だ。それはもう、すさまじいまでの多幸感にあふれるひとときだった。
しかしここで、冷静に考えるとある疑問が浮かんだ。
なぜ僕は、“ポケモンがいる世界”にいる感覚から多幸感を得られたのだろうか? ポケモンの世界は、とっくの昔に(自然と)捨て去ったはずなのに。
その答えは、ティムに思いを巡らせたときにやってきた。
■ティム/過去・現在の自分自身
ティムは子どものころはポケモンが好きだったが、父親との関係性のこじれによりポケモンと疎遠になっていった。
ポケモントレーナーになる夢はいつの間にか将来の選択肢から外れ、今は保険会社に勤め刺激の少ない生活を送っている。小ちぇえカラカラさえも、てんで捕まえられない。そんなキャラクターだ。
彼は、父親の失踪をきっかけにポケモンと再び向き合わなくてはいけなくなる。ピカチュウをはじめポケモンたちと交流していく過程は、父親への反発から“好きだったもの”“夢”を遠ざけてしまった自分の過去(=捨てた“好きだったもの”と“夢”)に、再び目を向ける儀式でもあった。
僕自身の境遇と重ねずにはいられない設定だった。映画を観る間、僕はティムの姿を通じて、ポケモン世界から離れていった過去の自分と向き合うことになったのだ。
社会に出たミレニアル世代の観客の多くは、僕と同じように自分自身とティムをダブらせ、共感をほとばしらせ、底なし沼にはまるようにどっぷりと物語に浸かっていったはずだ。
さらに繰り返しになるが、実写の生々しさが没入感を加速させ、客席とスクリーンの向こう側を地続きだと感じさせた。
いったいどれだけの費用と人員と労力を投入すれば実現できるのか、想像もつかないほどのクオリティで紡がれる映像は、現実のこちらと非現実のあちらの境界を消失させ、ポケモン世界で生きることの喜びを僕に教えてくれたのだ。
極上の浮遊感。幸福が毛細血管を駆け巡り、時の感覚が次第に麻痺していった。
ところが、ティムが肩に乗ろうとするピカチュウを拒否するシーンを見たとき、無性に切なくなって涙が止まらなくなってしまった。
そのときの感情は、うまく説明できない。でも、はっきりとこう思ったことは覚えている。
結局、俺はサトシになれなかった。
■サトシになれなかった大人たち、夢を捨てた俺たち
ここから先はただの書き殴りだ。思ったことを書いているので、ひどく感傷的であるし、論理破綻や意味のわからない箇所も頻出すると思う。だから、読んでくれなくても構わない。この文章を書くことは、自分の今までの人生を癒やす作業なのだと思う。
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どうして俺の隣には、ピカチュウがいないんだ? それはここが現実の世界であるから、とかそんな次元の低い話ではなく、ただ単純に、俺がサトシになれなかったからだ。俺はポケモンの世界から離れ、子どものころ夢見ていたポケモンマスターになる=サトシになることを、無意識に放棄したのだ。
それは多分、俺が“かなわない夢”から目を背けたんだと思う。多くの観客がティムと父親の絆で涙しているのをよそに、俺は俺で、冷静に考えるとどうかしていることでさめざめと泣いていた。
いつか旅に出て、ポケモンマスターになると無邪気に豁然大悟していたあの日から、だいたい20年くらい。ポケモンマスターになるどころかポケモンと出会うことすらできず、今は普通に会社員として生きている。それはなにも俺だけではないと思う。もしかしたら、この記事を読んでいる、あなただって。
ティムも、世界中にいる“サトシになれなかった大人”の1人だ。そんな彼がピカチュウを拒否する姿は、俺が大人になるにつれ叶う見込みがなくなった夢から目を背け、ポケモンたちを遠ざけていたことと重なった。俺はいつから、夢という言葉を使わなくなったんだろう。
しかし映画のティムは、ポケモンと共生する街に存在する。ポケモンと触れ合っている。彼の一挙手一投足は、実は俺がやりたかったことの全てが詰まっていて、でもこれは映画のなかで起こっていることだから俺にはできない、触れられそうなほどこんなにも現実感があるのに非現実だから触れることができない、そんな虚実の皮膜を決定的に刻み付けられて、もうどうしようもなく絶望して、俺の心は千々に乱れた。
その意味で、本作は非常に残酷な映画でもある。現実という抜群に切れ味の鋭い刀が振り降ろされ、俺の体は真っ二つに裂けたのだ。
■歌は終わった。しかし曲は続いている
だけどこの映画は、残酷なだけではなかった。絶望感ゆえに即死しかけたが、最後にとっておきの“祝福”を僕にくれた。
ティムはドダイトスの庭(これがもうすごいスケールで)を切り抜け、ライムシティでの最終決戦を乗り越え、ついには自分の過去と折り合いをつける。そしてラストシーンでは、次のステージへと颯爽と踏み出していく。
そんな筋書きは、夢を捨てる(あるいは捨てざるを得ない)という現象が逃れられない宿命である(人生のどこかで夢は捨てなければならない)としながらも、けれども(だからこそ)、夢を捨てた後の人生を抱きしめ、愛するべきなのだと語りかけているように思えた。
俺は今の人生を気に入っているか? ドラマティックではないけれど、穏やかに満ち足りた日々ではあると思う。自分の過去と向き合い、これまでに捨ててきたもののために泣き、まだ捨てていないもののために泣いたあと、僕は今ある人生を抱きすくめ前に進んでいくべきなのだ。
あなたも僕も、自分の人生を愛することができる。それがどんなに尊いことなのか、この映画は教えてくれる。
「ポケモン」という作品への愛とリスペクトにあふれた幕引き映像を見つめながら、僕は先ほどまでとは別の涙を流していた。ティムが僕であるならば、彼が経験した喜びは僕のものでもある。
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村上春樹は「羊をめぐる冒険」でこんなセリフを書いている。
「歌は終わった。しかし曲は続いている」
人生は続くのだ。たとえどんな形であれ。だから僕は、僕の人生を精一杯歩む必要がある。ほかでもなく僕のために。
「名探偵ピカチュウ」が、ただ単に映画を観るという行為以上の何かを与えてくれる理由が、ここにある。これは僕たちの人生を丸ごとあたためてくれる、祝福の物語だ。
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