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超期待した『シン・エヴァ』にモヤモヤする「3つの理由」について思う「3つの意見」

 3月14日の「現代ビジネス」において、「超期待した『シン・エヴァ』にモヤモヤした「3つの理由」」(以下、モヤモヤ記事)とのタイトルの記事が掲載された。

 「先に断っておくと、私は肯定派ではない」「『シン・』が良いと感じた人の気持ちを否定するつもりはまったくないが、モヤモヤしている人もいると思う。そういう人たちに向けて以下、書いてみたい」

 といった語り口から始まるそれは、つまるところ「俺らが期待したエヴァじゃなかった」という内容であり、Yahoo!コメントやSNSやらで賛否をかなり巻き起こしたりする。

 記事を読んで、モヤモヤというほどではないけれども「なんだかなあ」と感じたので、つらつらと書き始めてみる。

 内容を要約すると、「シン・エヴァ」に対する殆どの批判意見は、すでに作中で描かれた内容で“回答されている”から、この記事の批判意見もあまり意味をなさないんじゃないかな、ということである。

 先に言っておくと、僕は「シン・エヴァ」は肯定派だ。1日で2回見た。では、まずは批判記事の要点から掘り下げてみよう。…気づいたら8000字くらい書いていたので、めちゃくちゃ長いです。

※ほぼすべての内容が無料で読めます

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この記事は「シン・エヴァ」の核心に触れまくるネタバレが書き殴られています。未鑑賞の人は十分にご注意ください。
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■“逆張り”は必ず出てくるもの

 世間の流れとは逆のことを言ってみる、いわゆる“逆張り”の記事は、アンチの溜飲を下げられてPVを稼げる公算が大きいので、どこかのタイミングで必ず出てくるものだ。コミック版「機動警察パトレイバー」では、内海というラスボス格のキャラがこんなことを言う。

「週刊誌の作り方、知ってるかい?強きをけなし、弱きをわらう。勝者のあらさがしで庶民の嫉妬心をやわらげ、敗者の弱点をついて大衆にささやかな優越感を与える。これが日本人の快感原則に一番合うんだ」

 週刊誌ならともかく、現代ビジネスからこのスピードで逆張りが出てくるとは驚いた。しかし、逆張り記事はコーラを飲んだら出るゲップのようなもの。物理法則なのだ。だから、これにキレるのもおかしな話である。

 さて、モヤモヤ記事で書かれている批判意見をまとめてみよう。

 3つの理由とは、「何回それやるんだという既視感」「大団円への段取り感」「すでに通ってきた道を確認されただけ」と3つの見出しで分けられている。「シン・エヴァ」への批判のnoteやらツイートやらも読み漁ってきたが、そのどれもにいずれか、もしくは3つ全部がはいっていたりする。

 つまりモヤモヤ記事は、世間の批判の集積・象徴としてはよくまとめられている。かつ記者の個人的な情景が前段部分にしっかり焼き付けられていて“顔”が見えるし、喪失感を原動力に筆が乗っているのがよくわかる。記事としての品質はかなり高い、と思う。

 ただ、僕がこの記事から感じたのは、上記3つの批判意見は「シン・エヴァ」に対して意味をなさない、ということだ。なぜなら、「シン・エヴァ」はそうした批判すらも自覚的に物語に組み込み、批判に対する答えも内包した、しなやかでアクロバティックな作品だからだ。

■“エヴァ的なものからの決別”というファクター

 多分、ライターさんの本心が現れているのはここだろうな、と思うのが、この一文だ

過去作にあった「どう受けとめていいのかわからないが、とにかくすごいものを観てしまった」という体験は『シン・』にはない。

 正直、それは俺も思った。大学時代に初めて見たTVシリーズ25・26話の意味不明な展開に謎の興奮を味わい、旧劇場版(モヤ記事で言うところの夏エヴァ)の人類補完計画の発動と「Komm, susser Tod」が重なる破壊的な演出に頭を抱えるほどのショックを受けた。

 そして赤い海での「気持ち悪い」を見たときはもう、この先こんな名状不可能な感情を味わうことなんてないだろうと確信できるほどだった。僕が映画業界へ足を踏み入れ、こうしてライターをやるきっかけとなった、最も重要なエピソードがエヴァにあったりする。

 「どう受けとめていいのかわからないが、とにかくすごいものを観てしまった」体験でいうと、まあ確かに、僕がTVシリーズなどで感じたあの感覚は、「シン・エヴァ」にはなかった。まず比較的わかりやすい親切設計だったこともあり、エヴァの象徴ともいえる、不十分な情報の断片を雨霰と降らせることでスリルと知的興奮を誘発する離れ業は、鳴りを潜めていた。これを期待して見に行ったら、まあ肩透かしは食らうよね、という。

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 しかしこの批判は「シン・エヴァ」のコンセプトというファクターを挿入すると、意味をなさなくなると思う。これが意見①だ。

 「シン・エヴァ」のコンセプトというか目的は、エヴァ的なものに別れを告げることで、観客と製作者とキャラクターをエヴァの呪縛から解き放つことにある。これはいろんな設定・物語考察で指摘されているので、説明は割愛する。この2つがとてもよくまとまっているのでオススメだ。

 で、モヤ記事の筆者が言う「とにかくすごいもの」とは、エヴァを観る体験の核みたいなものであり、例えば旧劇の「赤い海での首絞め→気持ち悪い」のコンボは、言ってみればエヴァをエヴァたらしめる根源でもあった。しかし、「とにかくすごいもの」を描いた・観せられたからこそ、製作者・観客はそのショックが忘れられずエヴァを追い続ける。みんな等しく、エヴァの呪縛が降り掛かったのである。

 とすると、「とにかくすごいもの」を描くことはエヴァ的なものに回帰することになる。なので、エヴァ的なものの脱却を目指す「シン・エヴァ」では選択されえない。例えばあれだけカタルシスがあった旧劇の人類補完計画の発動を、「シン・エヴァ」でもガッツリとエモーショナルに描くこともできただろう。

 しかし、どちらかというとチープで違和感がみなぎる描写(例えば巨大綾波の顔の妙なCG)で進めたことは、エヴァ的なるものとの決別という覚悟を示しているように思えてならない。マネキンが手を取り合って宙を舞い、円を描いて悠然と編隊飛行を見せる様は、今思えばギャグだったのかもしれないな。

 そんなわけ、「とにかくすごいもの」が描かれていない、という批判は意味がない。「いや、そうだけど?」ということなので。

◇「シン・エヴァ」でかなり気になったこと

 劇中で、みんな「ニア・サードインパクト」のことを「ニアサー」って略してたの、普通の場面だったら別になんてことないんだけど、最終決戦の直前、腹を撃たれてグロッキーなミサトさんですら「ニアサー」って言ってたの、意表を突かれて笑ってしまった。

 せめて真面目な見せ場では、「ニア・サードインパクト」って言って…!

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■「期待したのに…」という態度の誤りについて

 閑話休題。モヤ記事の批判内容をもう少し分解していくと、核にあるのは「超期待した」というタイトルが示す通り、「自分の期待したことが描かれてない!」というガッカリ感なのだろう。

 ここで押さえておきたいのは、この「期待したのに…」という意見はすべて、自分語りに帰結するということだ。「自分はエヴァとともに青春を過ごした、その青春の総決算で期待したものが描かれてなかった、だからモヤモヤする」こういうことだ。

 こうした批判意見で間違っているとは言わないまでも、視点が足りないと思うのは、作品を見て「自分が感じたこと」にのみ言及していて、「製作者のパーソナリティ」に思いを馳せてないことだ。

 特に長く続いたシリーズものでは、製作者の心境の変化を鑑みないと作品は正しく読み込めない。「もののけ姫」を見るときは、自分の感情を見つめるだけでなく、製作当時の宮崎駿のステータスも知っておかないといけない、そういうことだ。

 「シン・エヴァ」の場合は、庵野秀明総監督(以下、便宜上、庵野)の「エヴァQ」以降のつらい経験と、妻・安野モヨコやジブリやカラーの手を借りて立ち直る過程で気づいた“他者との関係性の尊さ”に思いを馳せなければならない。そして、庵野がエヴァという“人生の重荷”となった虚構に決着をつける、という強い意志を持っていたことも鑑みなければならない。

 多くの記事で指摘されている通り、「シン・エヴァ」は「Q」のあとに壊れてしまった庵野が、いかにして回復していったかも投影されたセラピー的作品である。「へレディタリー 継承」「ミッドサマー」などのアリ・アスター監督は、物語を描くことで自分の痛みを癒そうと試みている、と繰り返し語っている。庵野にとって「シン・エヴァ」はそれと同じ。

 つらい経験を通じて、庵野は「自分のなかの虚構を反芻して生きる」のではなく、「大人になって他者を自覚し他者との関わりにある現実を生きよう」ということにたどり着いた。そして、「シン・エヴァ」ではメッセージとしてそれを描いた。

 これに対するモヤ記事の「自分が期待したものがなかった」という批判は、メッセージを受け取れていない、あるいは受け取ることを拒否している物言いにも見える。これが意見②

 「自己セラピーのために作品を利用するな」という声も聞こえてきそうだが、セラピーであることのどこが悪いのだろうか。作品とは多かれ少なかれそういうものだし、そもそも、ある個人が鬱となり、優しい世界のおかげで回復し、今は元気になったという再生の独白は、祝福されることはあっても、批判されるいわれはないんじゃないか。

(しかし、クリエイターと観客はある種持ちつ持たれつの関係で、クリエイターは観客を楽しませる、観客はクリエイターに対価をはらう、という契約関係にもあるわけだから、「期待していたものが描かれていない」という批判は「契約が履行されていない」との文脈であればまあ筋は通っていると思う)

 ともあれ、僕が多くの批判意見を見てきて、そのなかから共通して感じたのは、「みんな寂しくて仕方ないんだな」ということだ。言ってみれば自分の人生を狂わせ、これからも自分の人生を熱狂させ続けると信じていたエヴァという作品が、優しく、かつ強く別れを告げていったのだから、反発するのもわかる。

 劇中の鈴原サクラは、シンジに銃を向け、シンジは恩人であり仇、だからこうするしかないと泣いた。愛憎は表裏一体、批判意見は愛ゆえの憎しみなんだろうと思う。恩人としての側面が強ければ賛に、仇としての側面が強ければ否になる。非常に危ういバランスのもとに成立していたエヴァ。これはこれでクリエイター冥利に尽きる事実だ。

 で、まあこのように、本作に対する批判意見の多くは、作品で描かれ、キャラクターという依代に力を借りて、製作陣が提示した答えにすでに内包されている。平易に言うと、批判意見がぶつけられたとしても「うん、そうなんだよ。だから僕たちはこうするんだ」と柔らかく答えが返ってくる感じだと思う。

 「気持ち悪い」「現実に帰れ」「便所の落書き」とキレッキレにひでえことを言っていた人(庵野)も、時を経て根本から変わったということでもある。

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 僕たちは本作に対し、何をするのが望ましいのか? それは多分、拍手を送ればいいんだと思う。テレビシリーズの最終回みたいに。公開初日、上映後に拍手が沸き起こったというし、それはそれでまっとうな鑑賞態度だと思う。

 もっと言うと、多分この作品は観客がそれぞれの現実に戻り、生活し、いつの間にかエヴァのことを懐かしく思いながら、目の前の誰かと握手して過ごせるようになったときに、初めて完成するんじゃないか、と思った。それが、宇部新川のホームから現実に飛び出していったシンジとマリが示した「終劇」なんだろう。これが意見③。

 だから、こうして「シン・エヴァ」について考え続け、あーだこーだと管を巻いている時点で、僕もまだエヴァの呪縛から解き放たれていないのだ。頭では現実を生きようと思い、1週間ほど経った今も、胸にポッカリと空いた喪失感はいかんともしがたい。そうした諸々を含め、エヴァは青春によく似てるし、青春そのものだったという人の喪失感は想像するに忍びない。

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 と、推敲も論理チェックも特にしないでバーッと書いたので、言いたいことが伝わっているか不安だ。いっちょまとめておこう。

・超期待した『シン・エヴァ』にモヤモヤした「3つの理由」は、論旨をまとめるとエヴァファンが期待したカタルシスが描かれていなかった、という主張だったように思える。しかし「シン・エヴァ」はエヴァ的なものからの解放が大テーマなので、エヴァファンが期待したエヴァ的なカタルシスは描かれるはずがない(意見①)。

・エヴァ的なものを求めるがゆえの批判意見は意味をなさず、「大人になって他者を自覚し他者との関わりにある現実を生きよう」というしなやかなメッセージに吸収されていく(意見②)。

・望ましい態度があるとするならば、今後私たちは、エヴァを人生の大切なものと自覚しながら他者との関係性を懸命に生きることだ、多分(意見③)

以上です!

 で、ここからは蛇足だし、ほぼ想像なのにも関わらずちょっと痛烈なことを書くので、有料にします。アスカとケンスケのカップリングに対するオタクたちのねじれっぷりについて。

 ここまでとはまったく異なる方向性の文章なので、怒らないで聞いてほしい。

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