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【小説】ある作家の話 K君に献ず。 - 坡嶋 慎太郎【純文学】

あらすじ

「なぜ先生は物書きなどやっているのですか」
友人であり、作家仲間でもあるK君から問われた言葉について考えた主人公「僕」は幼少期に感じていた日常の正体と、作家を志した理由を振り返る。
これは、ある作家が物書きになった理由。その一端を克明に描いた物語である。

本編

【一|クロ】

 子供の頃から奇妙な焦燥が常に心に潜んでいた。あるとき僕はそれに名前をつけて飼うことを思いついた。その時から僕の中に巣食うこの焦燥は「クロ」と呼ばれるようになった。
 クロは常に僕の中にあった。僕は単にクロを放し飼いにしていた。しかし、クロが僕の中から逃げ出すことは絶対になかった。

 クロは可笑しなことに日本語を喋った。そして、そのときの声はまるで僕の声と瓜二つでもあった。クロはことあるごとに「お前には成すべきことがあるのではないか?」と語りかけてきた。その度に僕の頭は疑問符を浮かべたが、一方で心は落としたりんご飴のように欠けて散り散りになっていた。

 あるとき、僕は道にうずくまる浮浪者を見た。忙しなく動き回る社会の中で、それだけが異物のようであった。僕にはそれが面白く感じられたが、クロにはそうではなかったようだった。クロは真剣な声――といっても、クロの声は常に一定であるが、で「お前には成すべきことがあるのではないか?」と壊れたラジオのように繰り返していた。僕はそのとき、自由になろうと決意した。あの浮浪者のように僕は社会という檻の中から外に出ようと考えた。

 あるとき、僕は鼠取りにかかった鼠を見た。粘着質な板に足を取られ、今にも餓死しそうな鼠は不思議と可愛らしく見えた。僕はその鼠に餌をやろうと考えた。そうして、たまたま持ち合わせていた円形のチョコレートを鼠の頭に貼り付けた。この僕の優しさを見たクロは柔らかな声で「お前には成すべきことがあるのではないか?」と言った。僕はハッとして近くにあった拳大の大きさの石ころを手に取り、それを鼠の頭目掛けて叩きつけた。一度ビクンと跳ねた鼠はそれから全く動かなくなった。僕は自分に優しさが足りていなかったのだと反省した。

 またあるとき、僕に初めて好きな人ができた。長く絹のように美しい黒髪と眼鏡が特徴の女の子だった。僕は叶うならば彼女と溶け合いたいと感じていた。しかしながら、それは叶わぬ願いでもあった。彼女には僕ではない別の思い人がいたのである。それを知った僕は意外にもひどく冷静であった。今にして思えば、子供ながらに僕は彼女を幸せにすることができないと悟っていたのだろう。初めての失恋を経験した僕にクロは相も変わらぬ様子で「お前には成すべきことがあるのではないか?」と声をかけた。その言葉に閃きを得た僕は彼女が残した一、二本の髪の毛とその香りを堪能した。そうして、人を愛する心を知った。

 クロは常々「お前には成すべきことがあるのではないか?」と繰り返した。その度に僕は自らの成すべきことを成そうとした。しかし、どのようなことをしてもクロはただ「お前には成すべきことがあるのではないか?」と続けるだけだった。

 日に日に僕はわからなくなった。僕とは一体なんだというのだろうか。僕の成すべきこととはなんなのであろうか。そうして僕は齢にして二十、大学生という世間的な肩書を得るに至ったのである。

【二|迷子】


 枕元のスマートフォンからは気立しいアラームの音が部屋に木霊するように鳴り響いていた。僕は未だ開くのを拒否する瞼に抵抗しながら、スマートフォンの電源ボタンに触れた。途端、部屋は再びの静寂に包まれた。いや、正確にいうならば僕の身体と布団とが擦れる衣擦れのような音のみが部屋を支配していた。僕は二度、三度と崩れ落ちそうな意識を押し留め、布団から立ち上がろうと努力した。そうして、立ち上がることができた後にはすぐ横のカーテンを開け放った。

 その日も空には薄い銀膜が貼られ、あたかも映画館のスクリーンのようであった。そのスクリーンからは誰のものであろうか、憂鬱な涙が溢れていた。ここのところ、空模様は毎日変わらぬ様子であった。
 なんらかの不吉の予兆か、或は変わらぬ日常への心証か。濁り、淀んだ雲間から差す乏しい光は淡く脆い現実に咽いでいた。僕は人生のうちの数分間を無駄にした後に洗面所へと移動した。

 洗面所の引き戸の合間に固定した突っ張り棒にはいくつかの衣服が掛けられていた。垂れ下がる衣服はまるで暖簾のようでもあり、妙な暖かみがあった。僕はこれが気に入っていた。
 洗面台の前には多少大きな鏡があった。ぼくの顔はまたいつもと変わらぬ様子であった。そうして、レバー式の蛇口を上にあげると冷たい水が流れ出した。指をつけ、適度な温度になるまで僕は鏡を眺めていた。常日頃の生活習慣は目の下の濃いクマに表れていた。
「お前には成すべきことがあるのではないか?」
 鏡の中の僕が、僕の中に潜むクロが嘲笑を含んだような声でそう訴えていた。
「……うるさい」
 小さく呟いて、僕は顔を洗い流した。流水は思った以上に冷たいままだった。

 居間へと戻った僕は外に出てみようと思い立った。外では未だにポツポツと雨が音を立てていたが、僕は存外にこの雨というものが嫌いではなかった。地面を打つ雨のノイズはクロの言葉をかき消すのにちょうど良かった。
 僕は一杯の水を飲むと、外に出られるだけの衣服に着替え、玄関へと向かった。履き古された靴を履き、立てかけられた傘を持って扉を開けると、外と内との気温の隔たりを感じた。外は予想以上に寒かった。
 雨の勢いはそれほど強くなかった。それこそ、傘がなくとも多少濡れるだけで済みそうなほどであった。

 僕は手始めに近くの公園に向かうことにした。傘を差し、玄関から一歩踏み出すと、それまで静かにしていたクロが「お前には成すべきことがあるのではないか?」と言い始めた。途端に外に出ることが間違いのように感じられたが、僕が歩みを止めることはなかった。
 人通りは少なかった。僕以外に出歩く者は皆一様に同じ顔、同じ背丈をした同じような人間であった。皆何かに追われるようにして日々を生きていた。彼らには成すべきことがないのだろうと思われた。彼らは生きるべくして生きているのだろう。それはむしろ幸せなようにも感じられた。

 道中、僕は一匹の犬を見た。雨の中、濡れそぼったその犬は寂しげな表情を浮かべたまま道にうずくまっていた。首輪の類がないことを見るに野良犬ストレイ・ドッグであることが窺えた。帰るべき場所もなく、ただ何かに耐えるようにじっとしている犬はどこか僕と同類のように感じられた。
 僕は興味本位でその犬に近づいてみた。ともすれば、傘を分け与え、雨が止むまで隣にいても良いとさえ思っていた。しかし、僕が感じていることを他者も同様に感じているなどと思うのは傲慢そのものであった。犬は僕が近づくとその身体を持ち上げ、力無い様子で僕に威嚇を始めたのだ。
 ――あと一歩でも近づいてみろ、もし近づけばその腕に、その足に、この牙を突き立ててやる。

 言葉はなくともその表情からは野良犬の言わんとしていることがひしひしと伝わってきた。僕は突き放されたような感覚に陥った。それはまるで、身近な信頼に足る人間に裏切られたような不快感を僕にもたらした。
「お前まで僕を遠ざけるのか!」
 僕は咄嗟に大声をあげた。それは、ただ野良犬に向かっての言葉だったはずなのに、妙に僕の心にストンと落ちる感覚があった。
 そうだ、僕に味方などいやしない。僕は孤独ひとりだ。僕は僕だけで生きていくしかないのだ。

 僕は足早にその場を去った。犬にはもう目もくれなかった。
 公園に辿り着くと、人は全くいなかった。大人も、子供も、僕以外の人間は全くいなかった。世界には僕だけが存在していた。少なくとも、僕が感じる世界の中には僕という存在のみが立つことを許されていた。
 僕はところどころ茶色く錆びたブランコを眺めた。それから、同じように錆びた滑り台を眺めた。この公園にはシーソーがなかった。また、ジャングルジムもなかった。簡素な公園だった。子供が集まればサッカーや野球ができそうな広さの割には遊具はその程度しかなかった。ただ、園内の隅には大きな一本の木が生えていた。

 何という木かはわからなかった。今は携えた緑の葉に雨が滴るだけだった。この木もまた孤独だった。
 しばらく、僕は目を瞑ったまま何をするでもなく立っていた。雨の音が聞こえた。時折、風に揺られる葉音が聞こえた。そうして、またクロの声も聞こえた。
「お前には成すべきことがあるのではないか?」
 僕は再び歩き出した。

【三|決意】


 公園を出た僕はバス停へと向かった。明確な目的地などなかった。ただ、バスに乗ることが目的だった。
 バス停は公園から一本外れた道にあった。次のバスは五分ほど先だった。僕は一人、雨風に揺られながら待つことにした。
 待っている間、僕はふと考えていた。僕の成すべきこととは何であろうか。子供の頃から聞こえるクロの声は時に優しく、時に厳しく、しかして僕を責めるような雰囲気ニュアンスを持ってはいなかった。ただ、僕に何かを成すべきだと忠告するだけだった。

 僕には夢がなかった。僕には希望がなかった。ただ、僕は生きているから生きていた。死ぬ理由などなかったが、生きている道理もなかった。
 心臓は常に拍動を続けていた。僕の身体は生存を望んでいた。だが、僕の心は何一つ望んではいなかった。
 何かをしなければと常々思っていた。行動に移すことこそ何かを成すことの一歩であることも理解していた。しかし、僕は一介の学生に過ぎなかった。

 幼少の僕には夢があったはずだ。だが、今の僕は先の見えない霧に囚われていた。ただ、焦燥だけが募った。その焦燥はクロの言葉を借りて僕に語りかけてきた。
「わかっている。言われずともわかっている」
「しかし、僕は如何にすれば良いのだろうか」
 しばらくするとバスが来た。気付けば5分も経っていた。僕はバスに乗り込むと整理券を手に取り、最も後ろの窓際の席に座った。
 バスには僕以外の客はいなかった。雨の日なのに珍しいと感じた。僕は曇った窓に手を合わせた。結露した窓の表面に僕の手形が残った。窓の外がはっきりと見えた。

 バスが発車すると窓の外の光景は高速で移り変わった。古い民家が見えた。寂びたラーメン屋が見えた。傘立ての埋まったコンビニエンスストアが見えた。どこまで行っても道と人の生活は続いていた。
 僕は人の社会に生きている。そう感じられた。
 僕は深く息を吸い、目を閉じた。あたりは当たり前のように暗闇に支配された。クロはいつも僕には成すべきことがあると言っていた。しかし、それが何かを明かすことはなかった。
「僕は一体、どうすればいい」
 見知らぬ土地で迷子になったように僕は小さく呟いた。
「お前は」
 小さくそう声が聞こえた。それは僕の、クロの声だった。

「お前はいま暗い夜道の中にいる。あたりに灯りはなく、また仲間もいない。だが、お前にはお前がいる。お前は偽善ではない優しさを知っている。そして、人を愛する心も持ち合わせている」
 嫌に饒舌だった。同じことばかり繰り返していたはずのクロはいま淡々と言葉を発していた。
「お前には成すべきことがあるはずだ。それは、お前がこの世に生を受けたことが証明している。人は生まれ、老いて、やがては朽ちる。その長い人生の中で何もせずに朽ちることほど愚かなことはない」
 クロの声はどんどんと大きくなっていく。
「お前は何かを成さねばならない。それが、お前が生きていることの証明に、生きた証になるのだから」

 ふっと、心に風が吹き込んだ。曇天の空に雲間から光が差すように。僕の心に暖かな何かが染み込んだ。
 僕には成さねばならないことがある。僕には遺さなければならないものがある。僕は自らがいた証明をしなければならない。そのために、僕の心には常にクロがいたのだろう。

 僕は深く息を吐いて、目を開いた。車内には変わらず僕だけがいた。僕だけが存在していた。この瞬間も、僕は僕のままだった。
 雨は既に止んでいた。窓の外には虹がかかっていた。チープな演出だった。つまらない日常だった。だが、僕は決意した。
 僕には成すべきことがあるのだと。

【四|手紙】


 これが私が常々感じていた日常の正体である。ある者は私を可笑しな精神分裂者扱いするが、私のことをよく知っているK君にしてみれば鼻で笑うような冗談と感じられることだろう。また、かつて私の中に潜んでいたクロは残念なことに既にどこかへと去ってしまった。鎖で繋いでいなかったのがよろしくなかったのかもしれない。しかしながら、クロの残した言葉は私の心に深く刻まれている。

 私はわたしでありながら、また私である。私の成すべきことの仔細は未だわからずとも私の意思は全く強固なものである。
 私はK君が誇れるほどの作家に大成することはないだろう。だが、それでも私は自らが成すべきことのために尽力する次第である。
「なぜ先生は物書きなどしているのですか」
 K君に問われた言葉を今一度振り返りながら、私はこの作品を書き上げた。この作品がK君の問いへの答えになることを願いながら、ここでは筆を置くことにする。
 次回会いに来る時には甘いものを持ってくるといい。羊羹などあれば僥倖である。

 ――我が愛すべき友人にして、尊敬すべき作家であるK君に献ず。


あとがき

何かを成そうと努力する人間の根底にはそれ相応の理由があるはずです。しかし、それを上手く言葉にできない人間もまた存在するはずです。
一創作者の端くれである私としては自身の作品が読者の心に少しでも残れば良いなと感じながら、今日も一文を紡いでいる次第です。

サークル・オベリニカ|読後にスキを。

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