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【試論】去る人、残るもの - 炉紀谷 游【大学サークル論】


〈はじめに〉

 はじめに断っておきたいのは、本稿が論ずることで何らかの代表性を示したり、内容に関しての正当性を、読者が持ちうる主義主張を越権してまで述べたりしたいわけではないということである。

 あくまで本稿は、この2年ばかりに渡って行ってきた大学内サークルの運営についての所感をつらつらと書き連ねるばかりの、言うなれば、ちっとも既存知識の拡張にならないような表現の集まりだ。
 加えて、本稿は2023年3月17日に投稿された記事を大幅に加筆して再投稿したものである(原典削除済み)。これは時世や私自身の心境が大いに変わり、部分部分を改めるのでは解決できないほどの論説の変化がみられた点にある。

 すなわち、取り留めもないような内容であり読者の考えを改めようなんて気はサラサラないけれども、全文を改定してまでも、私には皆さんにお伝えしたいことがある、ということだ。どうしてそこまでしたいのか、自問しても定かではない。だが強いて言うならば、ここに書くものが、私の示すことのできるサークル集まりに関する諸概念の論考たりうるからなのだろう。


〈集まりの場〉

 筆者、すなわち私自身は、本稿掲載元であるサークル・オベリニカの創設者並びに初代代表である。サークル・オベリニカとはマルチメディア系創作団体であり、いわば「芸術系」の枠組みにでも入るだろう、創作を中心とした活動を行っている。

 とはいえ、当サークルは必ずしも創作活動を主体とした無制限に機能的な場所というわけでもない。多くのサークルが持ちうるような所属欲への応答性がここにはある。だから、必ずしも創作者がメンバーであるべきでもないし、創作活動をしなくても排斥されるようなところでもない。
 しかし、そういっても創作系サークルというラベルを自ら貼り付けている以上、創作活動を行おう、創作に携わろうという空気が常に漂っていなければ、アイデンティティは内的に失われてしまう。

 この二者――自由に集まろうという発想と集団的アイデンティティを形成しようという発想――は、過程的に繋がっているともいえるし、対極的な位置関係にあるともいえるだろう。つまり、人が集まれば次第にその集団らしさを主張するようになる、という考え方か、人が集まろうと、目的がなかったり、人を束ねるといった発想がなければ集団らしさは主張されない、という考えのどちら側か、という問いである。

 ところで、サークルとは何だろうか。いやそもそも、大義としては<遊ぶ>ことを念頭に、人々が集まるとはどういうことなのだろうか。
 示してきたように、大概のサークル組織というのは、人の所属欲を満たすためにあることが多いと考えられる。いわば、趣味同好会というような奴で言い換えられるが、共通の趣味、娯楽の目的で集まることで、何処となく自分には居場所があると感じられるのだろう。

 世界は根源的に非分類の空間である。そこから出生し、一定程度確立される初期の分類空間や味方の存在(つまり、家や家族)と、外的空間という境目が生まれることで、世界は<内的世界>と<外的世界>に分類されることになる。
 人は多くの場合、<内的世界>にのみ存在することはできない。その主体の能動性の程度によって異なるだろうが、少なからず誰しも<外的世界>への干渉を試みては、自分の加減で引っ込めたり突き出たりするものだろう。そうして人は<外的世界>の中に、また別の内的空間を分類分けし、それらをまとめて所属先――すなわち、その人の<内的世界>――を形成しているのだろう。

 サークル活動は誰かの所属先であるように要請されている節がある。それは専ら、上で述べたように、サークルは誰かにとって集まりやすいところで、初期の<内的世界>になるよう予めカテゴリーに分けられた状態であるべきということなのだろう。

 だから、サークルは<集まり>の場であり、それ以上の目的は本質的には存在しないのではないかとさえ思われてくる。いや、一切の目的がなければそれは<外的世界〉と変わりない。だから、そこには大義としての<遊び>が「客寄せ」がごとく存在し、それがサークルの目的と化するのだろう。<遊び>は自由な営みであり、強制的なものではない。故に魅力的で開放的な、安全なものである。それは、自分側、味方と形容できる<内的世界>と相性がいいのだろう。


〈アイデンティティの形成と遊離〉

 前項では、サークルが<集まり>の場であり、それが人の所属先となるよう求められていることを主張してきた。
 補足として、サークルは集まるだけではなく、個々の<内的世界>と符号が合うようにそれぞれの<遊び>が定義される。一度<遊び>が定義されると、その部分はサークルという集団の独創性として機能する。当然だが、一つとして同じ目的で、同じ行動を取る団体はない。当サークルが仮に「芸術系」として成立していても、他の団体と同じ趣旨で動いているわけではないし、思想はそれぞれ固有に存在するはずである。

 すなわちこれは、サークルにおける<アイデンティティの形成>なのだ。本質的には、どの団体も<集まる場所>として機能するのが前提にあるが、予めその団体の特徴が明示されていれば、初期のカテゴリー分けとしてそれらは有意に機能する。
 そしてもちろん、アイデンティティは付加的でありながら、それ自体が価値を提示する。団体が固有に提示する<遊び>がその団体らしさを示し、その団体らしさ、すなわち<アイデンティティ>が、<遊び>を再定義する。そしてその<遊び>はその団体らしさをより固有ユニークなものにする。

 ところで、ここまで述べてきたサークルのアイデンティティとは、その団体に与えられた外的な意味付けの一つであって、そのサークルに所属する構成員にはアイデンティティの意識は希薄であることもしばしばあるだろう。
 それは、サークルが<集まる>場所になるのではなく、発起人、つまり代表者が<集まる>中心点にあるからである。
 当然ながら、人々の集合体が意思をもって挙動を示すことは疑わしい。一般として、代表者の意思決定がそのままサークルとしての決定と認められるのが自然であって、代表者の思想が、サークルの<遊び>を定義するのだ。その結果、サークルが<集まる>場所となるのだが、それは言い換えれば代表者のもとに人が集まるということである。

 加えて、この代表者と構成員の関係は権力関係であり、代表者は構成員を統率している必要がある。仮に、構成員が代表者と同等の立場にいれば、それはサークルとしての「開かれた集まり」の場にはならず、「友達の輪」でしかない。
 つまりは、あくまでそれぞれが他者として(思想や態度、行動という側面で)違う方向を向いている必要がある。それは、皆が輪の内側に視点を向けるのではなく、外側を向くためにサークルが拡散し、排反的態度、いわゆる「身内ノリ」を排除できるからである。こういてサークルは拡散性を持ち、<集まり>としての機能をもつ。つまりは<内的世界>たりうる十分な心理空間的広さが確保されるということである。

 ここで問題なのは、アイデンティティの遊離である。まず構成員はそれぞれ違う方向を向いているためにサークルが拡散する。こうなると、サークルは徐々に広くなり、<集まり>の場として機能させるに必要な<遊び>が変化する。
 この場合、本来はアイデンティティによって遊びの再定義が行われる。原初的に存在した<遊び>が行われることがアイデンティティを形成し、それが<遊び>を再定義する。通常はこれで<集まり>の場としての機能は保たれる。
 しかし、サークルの拡散が勢いを増し、本来的な代表者と構成員の権力関係によって支配されてきたサークルが制御できなくなると、<遊び>がどう定義されていたとしても、団体らしさは失われ、<アイデンティティが遊離>する。アイデンティティが形成されていなければ、遊びは再定義できない。すると、従来の<遊び>さえも失われ<集まり>の場という側面は崩壊し、サークルは終局を迎えることになるのだ。

 例えば、長きにわたって続いてきた活動自粛期間で多くのサークルが滅んだとされている。
 もちろん、どんなサークルでも原初の段階では、代表者のもとに<集まる>ことに重きが置かれ、メインとしての<遊び>を消費するのみでそれらは成立できていたはずである。
 しかし、活動自粛によってそもそも<集まる>ことが難しくなったほか、サークルの拡散を前にして遊びの再定義に失敗したこともあり、権力関係によってサークルを支配することができなくなった。結果、アイデンティティが遊離し如何に面白い<遊び>を持っていたとしても多くのサークルがことごとく潰れてなくなってしまった。
 サークルが<集まる>場所として成立するのに、対面である必要はない。故に様々な方法はあったと考えられるけれども、遊びの再定義を怠っていると、サークルは消えてなくなってしまうのだ。

 このとおり、本来サークルは<集まり>の場として成立するための<遊び>を持っていれば機能するのだが、サークルが拡散していくなかで発展していくためには、アイデンティティを保持し、遊びの再定義のなかで代表者と構成員の権力関係を内省する必要があるなど、複雑な組織形態を有していると考えられる。


〈去る人、残るもの〉

 本稿が示す結論的な内容は、上記「サークル」「遊び」「アイデンティティ」などの考察を踏まえた、おおよそ「サークルのあるべき姿」の模索である。

 人は、所属欲によって<集まり>の場を求めるが、<遊び>の性質の如何によっては、離れていくこともあるだろう。代表者というのは、そういう人の性質に苦労するはずである。だから、複雑な形態を引っ張ってきてでも、遊びの再定義を試みては、アイデンティティを確立し、どうにか人を権力関係で支配できるようにと考えるはずだ。

 だが、これはあまりにも苦しいものであるし、サークルが代表者と意思を同じくするのであれば、サークルのアイデンティティが遊離することは代表者のアイデンティティが(少なくとも部分的には)失われるようなものである。

 であればサークルはどのような立ち振舞が求められるのであろう。
 本質的には<集まり>の場であるのだから、人が集まらないことにはどうしようもないと思われるが、ここではあえて「人は去るものだ」という観点を導入したい。ここまで説明してきた通り、これは自明な話である。だからこれに加えて「ものを積極的に残すべきだ」とも主張しよう。
 もの、とは<遊び>などの活動の中で得られた様々な生産物である。わかりやすいものは「思い出」。具現化すると、活動写真や会話記録、そのほか活動したという事実を示す多様な生産物である。

 あるいは「知的所産」もそうかもしれない。当サークルが創作系であるからこそ行いやすいのだがつまり、様々な創作物や考え、意見のやり取りなど、サークルの<遊び>を通して得られた思考、行動の一体系である。
 人は、多様な方向を向いているからこそサークルが<集まり>の場として成立する。従って、サークルの拡散は止められないはずである。故に権力関係によって制御できなければ人が一定程度去ることは認めなければならない。しかし、連続体としてのサークルを祈願するのであれば、ものに集中するべきである。

 「そのサークルで生まれる「もの」の性質や面白さに焦点を当て、それを生産するために人がいる」のだと。サークルが<集まり>の場であるという認識が強いなかで、このような発想は半ば狂気じみている。
 多様な価値観を持つ人らと交流するというのが大前提の中で、何かを生み出すことに集中することはやるべきことと遠回りであるという直観が働くが、前述のなかでは最も継続可能性となる<遊びの再定義>を促しやすいはずである。

 アイデンティティの性質によっては、<遊びの再定義>は非常に難しい。「とりあえず創作する団体」や「◯◯する団体」という抽象的なアイデンティティを有している状況から、<遊び>を具現化するのが難しいことは容易に理解できるであろう。
 従って、面白い、愉快な、人々の所属先としてふさわしいところであり続けるためには、人が去ること、すなわち流動性を受け入れるなかで信念を持って、人が集まってなにかを残し、それが連続して続くような団体づくりを目指す必要があるのではないだろうか。


〈将来的なもの〉

以下は、原典を加筆修正したものである。

 さて、ここまで書いておいて変な話なのだが――当サークルの設立当初から思っているのは、「それでもいつかはオベリニカも消えるはず」ということである。
 学生団体は、その性質上年度によって構成メンバーがガラリと変わるし、創設者の意志や伝統がその通り引き継がれるとは思えない。
 人は必ず去るものであり、アイデンティティの遊離を引き起こす程度に人数も確保できなくなるときがあると感じているのは事実である。
 しかし、オベリニカには不動の財産が残されている。それが、「創作物」である。
 独自の作品世界は、オベリニカがどうであろうと、その輝きを保ち続ける。
 誰かに響いたら良いとか、読んでほしいとか、創作者としての願望は人それぞれであろうが、ともかく「そこにある」ことが確信できる「創作物」を世に残すことが、この団体の正確な目的であり、私の使命だと感じている。
 そう、願わくば、「創作物」がオベリニカを象徴するものとして、世に知られればとも思うけれども――。

 まあずいぶんと書き散らしたが、実際のところ、明日にはサークルもメンバーもすべて消えているかもしれないという思いが、「代表」として、文中でいう「権力関係」に引きずられている以上、頭から離れがたいのも事実である。

 だがそれでも、人が去って、物が残ればそれでいいのだろう、私にはそう思われるのである。


サークル・オベリニカにおける「試論」とは,物語世界の上に存在する「小説」群と区別される,著者自らが語る,エッセイ,評論,その他様々な論考です.それらは概して「著者の世界」を作り上げています.学徒である私達の思考過程を試しに綴ってみることから,これらは「試論」ジャンルとしてくくられています.

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