ルッコラ

「樽井先生、今ちょっとよろしいですか?」
「あはい、えっと、どうかされましたか?」
 教師になって二年目、生徒とは年が近いこともあり兄のような感じで慕われていたが、ここ職員室ではそうもいかない。特に熟練の教師が多いこの学校においてはまだまだ赤ん坊である。
 ましてそんな樽井に話しかけてきたのは鬼木田の異名を持つ榎木田正臣。さすがに動揺を隠しきれなかった。
「いや大したことじゃないんですけどね、樽井先生は野菜にお詳しいとか。」
今でこそこの学校で理科の教員として働いているが、小さい頃から色々な野菜が好きだった樽井は大学でも野菜そのものや農業についての専攻だった。研究職に進むことさえなかったが、今でも本格的に家庭菜園に取り組んでおり、ゆくゆくは田舎で農業生活でも、と思っている。
「そうですね、それなりには。」
「実は先日、うちの家内がてんぷらを作ってくれたんですよ。」
「天ぷらですか。」
「家内はなかなかの料理上手でして、それも美味しかったんですよ。」
 榎木田は自慢していないようで誇らしげにそう言った。
「そうなんですね。」
 できる限りの笑顔を浮かべてそう答える。
「いやでもあれだけはなかなかに辛くて食べられなかったんですよ。あの、緑の……」
「シシトウ、ですか?」
「そうそう、それです、シシトウ。あれはどうにかならんもんですかね。」
「そうですねー。そもそもシシトウっていうのはトウガラシの仲間なんです。」
「ほぉ、やっぱりそうですか。」
「品種改良で辛さを消した野菜なんですけど、何本かに一本は辛いのがあるんです。」
「それにあたってしまったと。」
「そうですね。基本的には種とヘタの部分が一番辛いのでそこを取り除いてもらって、あとは形とか香りになりますかね。」
「なるほど、いや勉強になります。」
「いえいえ、恐縮です。」
 するとそこに数学科の新見先生が近づいてきた。この学校の数学科の中では数少ない女性教諭だ。
「お二人とも何の話をされてたんですか?」
「ああ、新見先生。いや樽井先生が野菜に詳しいと聞いたもんで色々と。」
「そうだったんですか。そうだ樽井先生、私も一つうかがってもいいですか?」
「あはい、もちろん。」
「私レストラン行ったりするのが好きで、休日は結構いろんなところに食べに行くんですよ。」
「新見先生はグルメなんですね。」
 感心したように榎木田は言った。
「グルメなんてそんな。」
 手を振りながらそう答える新見。樽井はただただ苦笑いを浮かべていた。
「で、この前イタリアンを食べに行ったんですけど、ルッコラでしたっけ、あれがなかなか癖が強くて、あれってどうにかならないんですか?」
 どうにかならないかと言われても、自分にはどうすることもできない。今自分は何を求められているんだろう、と樽井は思った。
「そうですね、まあレストランだと難しいですけど、ご自宅で召し上がるならなるべく火を通す、とかですかね。」
 そう答えてから新見先生の方を見てみると、そういうことじゃないんだよな、といった表情を浮かべていた。
「じゃあパクチーはどうですか、あれもどうにかなりません?」
 パクチーだと?それはもう端から抜いてもらうしかないだろう。
「うーん、そうですね……」
 答えに渋っているとそこで授業終了を告げるチャイムが鳴った。
「あ、すみません、次授業なのでまた後程。」
 わざとらしいくらいの大声でそう言い、その場を離れた。
 
 家に帰り、いつものように家庭菜園の世話をしながら、
「君たちは話さないでもいいから楽だよ。」
 と、野菜たちに話しかけるのだった。

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