プロレス

夕方になり、子供たちの楽しそうな声もすっかり聞こえなくなった学び舎は、少しばかり憂いを帯びているように思えた。
既にまばらとなっていた職員室で仕事を続けていた天野だったが、ひとまずキリのいいところまで終えたので帰ろうかと、身の回りを片付け始めた。
「天野先生、少しいいですか?」
天野のことを普段から気にかけてくれる蕪木 清香(かぶらぎ さやか)だった。
「はい。どうかされましたか?」
「もう帰られるところですか?」
「はい。そろそろ帰ろうかなと思いまして。あ、何かお手伝いですか?」
「いえいえ、そうじゃないんです。」
蕪木は顔を横に振った。
「いやもし時間があったら、このあとお夕飯でもどうかな、と思いまして。」
蕪木は少し照れながら、そう言った。
「はい、是非お願いします!」
天野自身、年齢が近くいつも気にかけてくれる蕪木とは仲良くなれればと思っていたため、蕪木からのこの誘いは、天野にとっても思ってもいない好機だった。
「本当?よかった!ちなみに、天野先生って電車で来てる?」
「あ、はい。」
「そっか。少しくらいならお酒飲める?」
「是非是非!」
「わかったわ。じゃあ、よく行くお店があるからそこ予約しちゃうわね。」
「ありがとうございます。」
「ううん。じゃあちょっと準備してきちゃうわね。」
「はい。私も準備しちゃいますね。」
そう言うと蕪木は自分の席に戻り、天野もいつもより手早く周りの片付けを始めた。

「すごいお店ですね。」
個室の席に案内された天野は、周りを見渡しながら思わずそう呟いた。
「そうかなあ?」
「すごいですよ。私、こういうお店に来たことほとんど無くて。」
「大丈夫よ。そんな敷居の高いお店じゃないから。」
コンコン、と扉を叩く音。扉が開くと、そこには着物を着た綺麗な女性が座っていた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「そうしたら、生ビールで。天野先生は?」
「あ、私も生ビールで。」
「あとは、これとこれと……」
蕪木がメニューを指差しながら色々注文をしていたが、店の雰囲気に圧倒されていた天野の耳には入ってこなかった。
「天野先生、他にはなにか頼む?」
蕪木からの呼び掛けで急に現実に戻ってきた天野。
「あ、いえ、大丈夫です。」
「遠慮しないでいいからね。じゃあとりあえず以上で、お願いします。」
「かしこまりました。」
そう言うと、着物を着た女性は一礼し、静かに扉を閉めた。
「天野先生、大丈夫?」
「すみません、色々見とれてしまって。」
天野のそんな様子を見て、笑う蕪木。
「本当、今日は誘ったいただいてありがとうございました。」
「いいのよ、全然。私も天野先生と仲良くしたかったから。」
「蕪木先生、こんなオシャレなお店を知ってるだなんて、お休みの日はこういうお店をまわられてるんですか?」
「ああ、いや……うーん。」
「あ、すみません。なんか変な質問してしまって。」
「いいのいいの!まあ、天野先生になら言ってもいいかな。」
天野はゴクリと唾を飲む。
「そんな大層なことじゃないのよ。いや私ね、プロレスを見るのが好きなの。」
「プロレス、ですか?」
「そう、プロレス。」
「なんか、意外です。」
「そうよね。」
蕪木は少し苦笑いをうかべた。
「でも最近は、プロレスが好きな女性のことをプ女子なんて言って、意外と会場に行くと女性のお客さんもいるのよ。」
「そうなんですか?知らなかったです。」
「何より、カッコイイの!」
蕪木は、どこか遠くを見つめながら、しかし輝いた目をしていた。
「……詳しくなくても楽しめますか?」
「え、一緒に行ってくれる?」
蕪木は突然グッと天野の手を掴みながらそう言った。
「はい、是非……」
「あ、ごめんなさい!」
蕪木は顔を赤めながら手を離し、謝罪した。
「いえ。是非行ってみたいです。」
蕪木はとても嬉しそうな目で天野を見つめる。
コンコン、と扉を叩く音。扉が開くと、先程と同じ着物を着た女性。
「こちら生ビールとお通しになります。」
袖を抑えながら、生ビールとお通しを机の上に運ぶ女性。
「お料理の方も準備出来次第お持ち致します。ごゆっくりどうぞ。」
そう言うと、先程同様、着物を着た女性は一礼し、静かに扉を閉めた。
「とりあえず……乾杯しようか。」
「そうですね。」
「「乾杯ー!」」
宴はまだ始まったばかりである。

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