ワサビ

「どうした、高森。緊張してるのか?」
「あ、はい。」
 高森はいつになく緊張をしており、ずっと下の方を見ながら座っていた。
「お前のその気持ちも分からんでもないが、せっかく来たんだ。満喫しろ。」
「はい、ありがとうございます。」

 二か月ほど前のことだっただろうか。仕事終わりに帰ろうとしていた高森に上司の久野大輔が声をかけてきたのだった。
「高森、ちょっといいか。」
「はい、なんでしょうか。」
 高森は久野のデスクまで向かった。
「随分先の話にはなっちゃうんだが、再来月の15日の夜って空いてるか?」
「あ、少し待ってください。」
 そう言うと高森はカバンから手帳を取り出し、予定を確認した。
「そうですね、その日は大丈夫そうです。」
「おお、そうか。そしたらその日、空けておいてくれ。」
「はい……えっと、ちなみにどういったご用件でしょうか。」
「いや最近お前が頑張ってるから、飯でも行こうと思って。せっかくならちゃんとしたお店を予約したくてな。」
「あ、ありがとうございます!」
「いやいや。」
 久野はニヤリとした表情で、手を横に振りながらそう言った。
「まあ、楽しみにしといてくれ。」
「はい。」
「おし、もう帰んだろ。気をつけて帰れよ。」
「はい、お先に失礼します。」
 高森は一礼してその場を去った。
 高森はその日の帰り道、いつになく気分が高揚していた。
 それもそのはずである。入社して間もない頃から尊敬してやまない久野からご飯に誘われ、しかも二か月前から予定を抑えておくような名店に連れて行ってもらえるのだ。
 しかし家に近づくにつれ、不安な感情にも襲われ出していた。自分で大丈夫だろうか、迷惑をかけないだろうか。
 その感情は一切消えることなく、ついに今日を迎えたのだった。

「高森は、ここ知ってたか?」
「もちろん。富々喜という名前は昔から聞いたことがあります。」
「そうかそうか。来たことはあるのか?」
「いえまさか。こんな風にカウンターでお寿司を食べるのだって今日が初めてですよ。」
「まあまあ、なかなか来ないよな。俺だってあれだぞ、よっぽどのことがなきゃこんな名店にはこれないからな。」
「ありがとうございます!」
 高森は思わず立ってお辞儀をした。
「まず座ろう、な。いいんだよ、こうやってお前みたいな部下を連れてこれたりすると、俺自身なんか嬉しくなるんだよ。」
「そう、なんですか。」
「そうそう。だから今日はたらふく食べて、で、俺にカッコつけさせてくれ。」
「はい、ご馳走になります。」
 うんうん、と久野は頷いた。
 すると袖から見るからに職人といった男性が一人、やってきた。
「この人がここの大将の樋口さんだ。」
「樋口と言います。」
「高森です。今日はよろしくお願いします。」
「ご丁寧にどうも、高森さんですね。いつも久野さんには贔屓にしてもらってます。」
「大将……ナイス。」
 久野はまんざらでもない表情を浮かべていた。
「じゃあお願いします。」
「はい。」
 重厚な返事をすると、大将はその無骨な見た目からは想像できないほど繊細な手さばきで握り始めた。
「どうぞ。」
 出てきたのは白身魚だった。
「まずは、タイとヒラメです。どうぞ。」
「はい。」
「先に食べていいぞ。」
「あ、ありがとうございます。」
 いただきます、と言ってから、まずはタイを口元へと運んだ。
「んん……」
 何も言えない。浅はかな意見かもしれないが、本当にその通りだった。
「どうだ?」
「あの、美味しいです。それしか言えません。」
「そうか、ならよかった。」
 久野はそう言いながら笑い、そして食べ始めた。
「うん、美味しいな。」
「あの、ワサビも、そんなに辛くないというか、涙が出てこないというか。」
「いいもんを使ってる証拠だ。」
「なるほど。」
「こうやっていいものを食べることは、いい本を作るためにも大切だからな。」
「はい。」
「まあいい、とりあえず食べろ!」
「はい!」
 高森はこれでもかというほど、舌鼓を打つのだった。

この記事が参加している募集

#スキしてみて

527,181件