いつもの喫茶店。いつもの席。いつものコーヒー。いつもの風景である。

 朱里との結婚を決めてから、雨相はそれまでのように勝手気ままに旅に出たり、原稿を上げなくなったりすることはなくなっていた。
 高森としては翻弄されなくなったことを喜びつつも、どこか寂しさも感じており、子供が生まれて以降、すっかり飲みに行けなくなってしまった学生時代からの友人のことが頭をよぎった。
 このまま先生はどんどん丸くなっていって今までのような作品を書けなくなってしまうのではないか、と失礼にも思うこともあったが、雨相月士に限ってそんなことはなかった。
 いやむしろ、以前よりもさらに面白い作品を生み出すようになっていた。

「はい、では確かに、原稿の方受け取りました。」
「よろしくお願いします。」
 雨相は深々と頭を下げた。
「そんな、やめてくださいよ。でも、先生、やっぱり変わられましたよね。」
「そう、ですね。」
 雨相ははにかみながらそう答えた。
「すごいですよ、本当に。」
「そうですか?」
「ええ。正直、環境が変わったことで、以前のような作品が書けなくなってしまったという作家さんを見たことがあったので。」
「そういう方もいらっしゃるかもしれませんね。多分そういう人は、書く目的が変わってしまってるのかもしれません。」
「書く、目的?」
「僕だったら、とにかく面白いものを。ダサいかもしれませんが、ただそれだけです。」
「ダサくなんてないですよ。むしろ、カッコいいです。」
「ありがとうございます。」
 雨相はまたはにかんだ。
「僕としては、結婚をしたことで、なんだか視野が広がった気がするんですよ。」
「視野が広がった、ですか。」
「はい。そうですね、例えば、雨相の雨。雨と言えばどんな音を思い浮かべますか?」
「雨、ですか。そうですね、ザーザーとか、シトシトとか。」
「そうですよね。今までの僕なら、そんな風に、雨そのものの音を考えてたんです。」
 雨相はブラックコーヒーを一口飲んだ。
「でも今は、雨が何かにあたった時の音、濡れた葉っぱから垂れる雫の音、水たまりを踏んだ時の音。雨を表現するときに、雨以外の部分から表現しようと思うようになったんです。」
「なるほど……」
「ちょっとわかりづらかったですかね。」
「いえ、そんなことは。」
「なんていううでしょうね、今までは自分だけの価値観で走ってきた。それが世間の方に認められてきた。でも、結婚をして、全く別の価値観の人と寄り添うようになって、僕の中の引き出しの数が増えたというか。」
「うんうん、なんか、分かる気がします。」
「もちろん、守るものができた、というのも大きいと思いますよ。」
 そんな雨相を見て高森は、少年らしかったかつての雨相が成長したように感じられた。
「先生、変わりましたね。」
 高森は呟いた。
「高森さん、人は常に変わっていくんですよ。高森さんだって、出会った頃とは変わっているじゃないですか。」
「本当ですか。」
「もちろん。あの頃は僕も高森さんも未熟でした。もちろん今だってまだまだ未熟者ですが、それでも確実に成長している。」
「まあ、そうかもしれませんね。」
「大きな変化があると、なんだか寂しい気持ちになるかもしれませんが、根底にあるものはきっと変わってないはずです。」
「うん、そうですよね。」
「ええ。だからこれからもよろしくお願いしますね。」
「はい!」

 喫茶店を後にし、会社に戻る道中、高森は久しぶりに学生時代からの友人を飲みに誘ってみるのだった。

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