理科

「皆さんお久しぶりです。夏休みは楽しかったですか?」
 榎木田先生が好々爺らしい笑顔を浮かべながらそう尋ねてきた。
「まずは夏休みの宿題を提出していただきましょう。後ろから回してください。」
 俺は後ろから受け取ったノートの束に自分のノートを重ね、前の席に渡しながらふと夏休み前のことを思い出していた。


「さっきいったところまでの白文、書き下し文、現代語訳、語句調べをノートにまとめてきて夏休み明けの授業で提出してください。それを夏休みの宿題とします。」
 生徒からブーイングが上がる。
「夏休み中も漢文に触れる癖をつけましょう。積み重ねが、大事ですよ。」
 榎木田先生の口癖だ。老齢で優しい国語科の教師だが、いつも課題の量が多いことや、実は昔はとても厳しかったという噂から裏では鬼木田と呼ばれている。
 授業が終わるとすぐに陽介が俺のところにやってきた。
「漢文なんてなんでやらなきゃいけないんだよ。」
 確かテスト前にも言ってたセリフだ。飽き飽きとしてくる。
「そもそも漢文が国語ってのが納得いかないよな。」
「どういうことだよ。」
「古文はさ、昔の日本語だろ?」
「もちろん。」
「でも漢文は、中国のやつじゃん。」
 確かに、漢文は日本語ではない。
「でも中国の国の言葉って意味では、国語だろ?」
 屁理屈には屁理屈で返してみる。
「じゃあ英語、みたいな感じで別の語学の授業としてした方がよくない?」
 そういわれるとそんな気もしなくはない。わざわざ国語に分類する必要があるのか。いや、ここで言い負けるのも癪だ。
「でも日本でも漢字は使ってるわけだし、英語みたいに全く別のものとして扱わないでもいいんじゃないか?」
 陽介が言葉に詰まる。俺はここぞとばかりに畳みかける。
「それに漢文と今の中国語は違うわけだし、そういう意味では語学の授業という位置づけはおかしいだろ。」
 陽介が黙る。
「それと、一応聞いておくが漢文が国語じゃない全く別の授業として存在したら、お前は文句ひとつ言わずに鬼木田の課題をやるのか?」
「いやそれは……」
 さっきまでの威勢はどこへやら、陽介は口ごもった。
「じゃあただの言い訳だ。」
 危なく陽介に言い負かされるのではと焦ったが、何とか耐えたようだ。
「じゃあ、算数と理科と社会は?」
 こいつ、まだやりあう気か?
「算数と理科と社会?」
「小学生の頃は算数、理科、社会って言ったのに中学に入ったら数学とか物理とか歴史に代わるんだぜ?」
 それがどうしたというのだろう。
「そうだな。」
「そうだな、って。おかしいじゃん!」
「何が?」
「だから、それなら小学生の時から数学とか物理とか歴史でよくない?、って話。」
「んん?」
 俺の声にならない反応を受けてなぜか勝ち誇った表情を浮かべる陽介。
「さすがに納得したでしょ。」
 今の話のどこに納得のいく点があっただろう。
「いや普通に考えて、小学生はまず基礎から教わった方がいいからだろ。」
 完全論破である。いや、論破というほど大したものではない。
愕然とする陽介。勝ち誇るほどでもない俺。これは一体、何の時間だろう。
「でもあれだ、漢文に関する指摘はなかなか良かったと思うぞ。」
 立ち尽くす陽介を見てそんなフォローを入れずにはいられなかった。
「なんかはじめてまっつんを言い負かせる気がしたんだよ。」
「そうか。」
 俺は小さな声で答えた。
「こういうのを『杞憂』っていうんだよな。」
 残念だがそういう意味ではない。しかし今の陽介には言えまい。
「とりあえず、夏休み中に俺の家で漢文の宿題やろう。」
 そう誘うことしかできなかった。

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