胃カメラ

「勇作さん、おかえりなさい。」
 母さんは涙ぐみながらそう言った。
「ただいま。亜寿美さん、勇樹。」
 父さんも涙ぐんでいる。
 先に言っておくが、別に父さんはどこか遠くに行っていたわけではない。会社帰りではあるが、さすがに毎日こんな風に出迎えるほど、変わり者な夫婦でもない。まあ確かに変わり者な夫婦ではあるのだが。
「再検査の結果、何とか正常値に近づけることができたよ。これもひとえに、いつも献立を考えてくれる亜寿美さん、そして陰ながら応援してくれた勇樹のおかげだよ。」
「勇作さん……」
 要はこのレベルのお話である。俺は、そんなに応援していたわけではない。
 少し前に行われた会社の人間ドックで、あまりよくない結果だった父さんは、余命宣告でも受けたかのごとく落ち込んでいた。
 幸い、普段の食生活を見直し、運動などを取り入れればなんとかなるとのことだったので、そこから生活の見直しが始まった。
 母さんは、勇作さんのために心を鬼にする、と涙ながらに語り、それから食生活の改善が始まった。
それまではガッツリめの食事が多かったが、野菜を中心になるべくヘルシーに、それでいてしっかりとお腹いっぱいになるような食事へと変わっていった。
そしてさらに、生活に運動を取り入れるようになった。それまではほとんど運動などしなかったが、二人仲良くジムに通ったり、どこか車で外出しても、その外出先ではなるべく歩くようにしていた。
 父さんは元々それほど太っているようには見えなかったが、やはり年齢からか昔ほどスリムではなくなっていたそうで、それでも生活を改善するようになってからは目に見えてスマートになっていくのが分かった。
 まあ何はともあれ、前より健康になったということなので、その点においては息子として安心した。
「勇樹もまだ関係ないと思ってると思うが、大人になったらちゃんと人間ドックを受けるんだぞ。」
「ああうん、分かったよ。」
「父さんな、ああいうのを受けて悪い結果を聞かされるのは嫌だな、って思ってたんだが、聞かされる分だけましなのかもな。」
 聞くのが怖いという気持ちもわからないではないが、そんなことも言ってられない。
「少しでも早めに分かれば打てる手はあるし、もし最悪の状況を宣告されたとしても、それからの人生設計を見直せばいいだけだからな。」
「まあ確かに、そうだよね。」
 死というものはこっちがどれだけ拒もうといずれはやってくる。それならば、受け入れる覚悟くらいしておきたい。
「ちなみに、人間ドックってどうなの?痛いの?」
「うーん……気持ちよくはないな。」
「まあそうだよね。」
「担当の看護師さんはうまかったから痛くはなかったけど、採血だって気持ちがいいもんではないからな。」
 それはわかる。命に問題がないと言われても大量の血を抜かれるのを見て、いい気はしない。
「一番きついのは、胃カメラだな。」
「ああ……」
「あれはどうにも無理だ。昔ほど苦しくないとは言われたが、それでも苦しいもんは苦しい。」
「それはそうだよね。」
「でもなあ……」
 父さんは水を一口飲んでから続ける。
「まあ本当に大病を患ったりしたらその何倍も苦しいからな。不幸中の幸いか。」
「いや、多分違う。」
「今のはさすがに違ったか。まあでも、孫を見るまでは死ねないぞ!」
「そうね!」
 ここまで静かだった母さんも大きな声で同意した。
「でもな、焦る必要はないぞ。亜寿美さんみたいに素晴らしい女性はそうそう見つかるもんじゃないからな。」
「もう、勇作さんたら。」
 結局こうなるのである。

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