【ひとはどこまで他者を傷つけていいのか:本論Part3】

〈自らの判断基準を有している、あるいは行動規範を確立したいと望むきみに〉


⒈ どこに配慮を向けるか——損なわないように


損なうとはなんだろう。ここは経験に目を向けよう。ぼくは様々に人を損なってきたように思う。人を馬鹿にして軽視して、彼らの良心を無碍にしてきた(あの子の純粋な好意とか、あいつの下手くそな愛情表現とかを役に立たないって切り捨ててきたよね)。そして同時に、誰かに、あるいは自分自身によって、ぼくらは様々に損なわれた。目指した夢や求めた理想は、それが未熟で脆く柔いがゆえにだろうが、他者の心のない言動で、冷徹な行動/結果で、ボロボロに崩れてしまった。そうこうして、今のぼくが、きみが、彼ら/彼女らがある。そして多分、彼ら/彼女らの中には死んでしまったものもいるし、もう一生会うことのない人も多いのだろう。だから犯した過ちの大半はもう取り返しがつかない。後悔してもいい、反省してもいい、けれどたぶんあんまり意味がない——時たま、こういう人たちを思う瞬間がある、大抵はみんなが寝静まった深い夜だ、夜は思いも寄らない自分に出会う(厨二病リプライズ?)。そう、ぼくらは余りにも他者を、そして自らを損ない続けてきた。そして無論、これからも基本的には相も変わらずそうしてゆくのだろう。でも、ぼくは、きみは少なくとも生きている。きみもそう。取り返しようがないことばかりだけれど、幸か不幸か、死はまだぼくらをお迎えに来て下さらない。そして、ぼくらはすっかり損なわれてしまっているのだが、けれど完全には損なっていない。こんなぼくらでも「損なわないように」と気づけば自ずと目指している、「損なわないように」ありたいと強く望んでしまう。だから多分、この「損なわないように」は「完全に損なわないように」、つまり「相手を死なせないように」とか「善くありたいという意志をかき消さないように」とかそういうことだ。なら裏返しに言えば、「損なう」とは「相手を殺してしまう」こと、あるいは「相手の善くあろうという意志を奪う」ことだ。そう、つまり「損なわないように」とは、「善を目指す意志を損なってはならない」という意味なのだ。J-POP的な物言いをしよう、「誰もがよりよい明日を望んでいる」。いや、「誰も」じゃないな。「完全に」損なわれたものは多くある。「善くありたい」と望まない人は少なからずいる。だからぼくらが「損なわないようにありたい」と善い方向を目指すのなら、「自分の未来、つまり夢や理想を大事にすること」そして「他者の持つ希望を大事にすること」だ、という曖昧な物言いが出来る。でもこれはさらに考察を詰めなくてはならない。なぜなら、「自分の夢や理想」と「他者のそれ」は時に衝突するからだ(例えば金持ちになりたいという夢は、どこからから利益をもぎ取ることでしか可能にはならない)。ゆえに、この「夢や理想」は「意志」と置き換えよう(この「意志」とは「個人における意志——自覚的意志・無意識的意志」を指す;意志とは『A→B』の『→』とこの『矢印を向ける一切』を指し、Bは「夢・理想」となる)。こう捉えると、あるいは殺し合いともなるゲーム「人と人との関わり」とはある意味で、この意志が交わり、衝突することに他ならないと言える。意志が交わり打つかると、ゲームの不可避的な結果として、意志の方向が少しずつズレる、ちょうどベクトルの計算みたいに。これは言い換えると、目指すべき夢や理想がズレて、別物になるということだ。けれど、また意志は残っている。だから夢や理想それ自体が置き換わっても問題はないのだ(Bが変わってしまってもよい)。大事なのは、ベクトルが多少なりとも存在しており、そして望ましくは、この関わり合いによって、ベクトルの絶対値(意志の強さ)と強度(孕む可能性/潜在能力)が増えることだ。そう、こういう方向で「損なわないように」、そして「傷つけ合う」を考えればいいのだ。「意志を奪ってはならない」、「元々の夢や理想は砕け散っても構わない」、出来るのなら「意志の強度を高めよう」。この三本柱が、「損なわないように」を支え成り立たせるべきなのだろう。出会いと別れの度毎に、乗り越えられない困難に衝突する度に、夢や理想は変わってゆき様々に辛酸と諦めを重ねる。けれど、常に強い希望を抱いて、新しい目的地へと全力で向かおう。そして年を重ねる毎に、研鑽を積み、新たな能力を獲得している。互いがこう在れるようにと望みながら、人と関わっていよう——あるいはそれは傷つけ合いかもしれないけれど、それによって高め合うことが出来たらいい——、こう願って止まないぼくらであろう。そしてこの理想的な関わり合いを実現得るには、相手を十分に信頼する必要がある。

⒉ なにを信頼するか——何のために傷つけ合うのかを見失わないように


ぼくらはたくさん傷ついたけれど、完全には損なわれてはいない。もう取り戻せない失ったものは数え切れないけれど、でも今もまた少しずつかも知れないけれど、新しいものを手にしている——知らない世界を知り、出来なかったことが出来るようになり、新しい知恵と能力を得て、時たま、新たに大事な存在が出来たりもする。ぼくらという今この瞬間に文字を読み思考を巡らす個体の元となる『存在』は(個体は球たる存在の表皮/二次元の映像だ)、これまでどんな時だって全く損なわれてなどない。あるのは絶え間ない変転だ。毎日、毎年、毎秒、ぼくらは新しい自分になる。そしてこの変転する個という輪郭の中心にある空洞に虚ろに映る(あると想定すべき)『存在』、経験や思考が堆積した硬い殻の内部に潜む『存在』——存在はドーナツだ、存在は歪んだ卵だ——、ぼくらは何度だって蘇ることができる。新しい夢と理想を抱いて、未知の目的地へとたどり着こうと願い、次の一歩を踏み出すのを止めない。そう、ぼくらはみな「レジリエンス」(自発的治癒力/内発的復元力:困難や難局への耐性)を持っている。そう、ぼくらが信じるべきはこの「レジリエンス」だ。そしてまたぼくらはこの人と人との関わりというゲームをプレーする中で、互いに「レジリエンス」を育て合うべきなのだ。ぼくがきみたちに、損なうことなしに傷つけ合おう、と勧める。なぜなら傷こそが人を成長させると思うからだ。そして痛みこそが求めた結果/果実をもたらすのに不可欠と思うからだ。卑近な例で、新たな知識の獲得を例に取ろう。ぼくの経験上、記憶に残るのは、深い驚きや感動、そして恐怖や絶望、それに苦しみを伴う衝撃を含むものだ。知識の定着はあるいは開墾と栽培に喩えられるように思う(cultureの語源は「耕す/農耕」である)。われわれの生まれたばかりの脳は荒れ地だ。荒れ地に鋤を入れるのが開墾だ——土地は、つまり脳は痛みがある。切り開いた土地(「切り」「開く」! なんと痛そうな言葉)に苗や種を植え込む——土地の深くに異物を入れ込むのに、痛みがないわけがない。そして、半年や一年、数年が経過し、収穫を刈り取る(「刈り」「取る」!)と土地は痩せている——知を実らせる/果実を生み出すのに土地は対価/犠牲を払う。つまり人は自らの痛みと引き換えにこそ、外部から与えられた種や苗(=負債※『歴史とどう向き合うか』参照)を有益な収穫物として実らせることができるのだ(ゆえに裏返しに言えば、痛みのないところに本物の果実は実らない)。人間という土地の可能性を信じよう、そして互いを耕そう。つまり、自らの「レジリエンス」を(現在だけでなく、未来の自分をも含めよう)、そして他者の「レジリエンス」を信じよう。ぼくはまだやれる。どこもかしこも傷だらけだけれど、決して心は損なわれちゃない。きみは、かれは、かのじょはもっとずっと強い。ぼくは/おれは/わたしは/わたしたちはきみたちを/かれらを傷つけているけれど、あの真剣な凜々しい顔をみてごらん、あの真っ直ぐな目に宿った青く光る炎を見てごらん、だれもかれもが「善くあろう」「強くありたい」と願い望んでいるよ。というか、そもそも傷つけるとはなんだ。だれかがだれかと関われば——存在と存在が衝突し合えば——、どれだけ傷つけないようにって慎重に配慮したって、不可避に傷つけてしまうじゃないか(ドーナツは粉々に砕けるかもしれない、卵は割れてしまうかもしれない、生地は千切れ二度と一つにくっつけられないかもしれない)。コロナと一緒だ、逃れようがない——マスクをしたって家に閉じこもったって感染は拡大する、それに数週間ずっと誰とも関わらないなんて不可能で、けれど同時に誰かと関わってしまえば間違いなく感染する/させるリスクは生じ、リスクのみならず、感染は現実に拡大し、遠くで、近くで、誰かが死ぬ。きみがよかれと思ってした行為/生きるために不可欠な行動は、誰かを傷つけるかもしれない。無償の奉仕をしたつもりが、相手の気分を損なうこともある。尽くしても報われない、求めた結果は基本的に得られない。むしろ、要らないものや邪魔なものばかりが増えていくようにも思える。風が吹けば桶屋が儲かる。関わりの法則は重力ほど単純じゃない。水の流れと同じで、未だ人智が及んでいない(あるいは永遠に)。なにが人を傷つけるかなんて分からない。ブラジルで蝶が羽ばたけば、テキサスで竜巻が起こる。カオスだ。完全に善いことをしたつもりが、それに傷つく人がいて、でも逆に傷つけたと思い後悔した振る舞いが、なぜだか感謝されることもある。ゆえに、だれかと関わろうと思うなら、とりわけその関わりが深いものであるのなら特に、相手を殺す/相手に殺される覚悟を持ち合わせるべきなのだ、本来的には。けれど、誰がそんな風に深刻に迷い、深遠な覚悟を決めると言うのだろう? 普通/常識的には、だれもそんなことはしない——だからこの記述は狂気の香りがぷんぷん漂う(おやすみ?)、けれど存在は深淵だ、存在を考慮に入れればどうしたって、狂気の様相を帯びることから逃れられない。けれど、ぼくはこういう可能性を見据えて、最悪の状況も覚悟しては「きみと関わりたい/あの人と関わりたい」という選択をして、出来る限り「損なわないように」と配慮しながら、でもある部分ではコントロールすることを完全に諦めながら、存在が光り輝く発露としての意志——「善くありたい、強くありたい」——を、「レジリエンス」を育み合いたいと思っている。そしてあるいは、きみもそう在るべきなのだろうと思っている。そしてさらに、「傷つけたくない」という気持ちを超えていってもらいたいとも思っている。誰だって、ぼくだって、出来るなら傷つけたくない。けれど、ぼくはぼくが望む関わりを果たしたい——存在と存在の交わりを。強く深く入り込めば、殻には日々が入り、生地は千切れてしまうかもしれない。けれどぼくはこの痛みを与える/被るという危険を冒してでも、「きみの成長のために」「あなたの成長のために」そして「自分の成長のために」、数え切れない傷を負わせ合い、血を、涙を流し合うことを——はたまた死すらも——恐れず、全力で打つかっていきたい。
そう、つまり「傷つけてはならない」とは至上命題ではない。「傷つけてはならない」という格率は二次派生物なのだ——法律/規則、倫理/道徳はきみ独自の判断基準ではない。だからぼくらは他者を傷つけてもいい、どこまでも深く烈しく、強く愛しくなるほどに(ところで、われわれの至上命題は「存在を高め合おう」だろうか、「存在を賭けたゲームを楽しもう(フェアプレーで)」だろうか?)。そして傷つけてもよいのが、しかし念頭に置こう、「人はどうしたって人を傷つけてしまう」というテーゼは開き直りの危険性を孕んでいる。だからこの開き直りを抑制/矯正するために、ぼくらは互いの「レジリエンス」をしっかりと固く信じよう。信頼がないのなら、あるいは十分に信頼ができないのなら(レジリエンスは人に応じて多寡が様々だ、無いものもいる)、決して傷つけてはならない。というより、信頼がないのなら深く関わってはならないのだ(深い関わりは必然的に傷を与えるのだから、相手を損なう危険が生じる)——信頼のない関係は両者の人格を蝕み、互いに獲得すべき求めるべき人格を見失ってしまうだろう。ゆえにぼくらは強い信頼を持ち寄って存在と存在を衝突させるゲームに無我夢中になろうし、そして傷を、深い深い傷を刻み付け合おう。傷や痛みなくしては、本質的な人格の陶冶は実現しない。なんであれ、ぼくはそう固く信じている。

⒊  痛みも恨みも消えなくとも、存在を信じよう!


ゆえに、自らの意識出来ていない責任をもすべて引き受ける姿勢を保ちながら、起きてしまったことを正面から見据え、十全に自らの行いを反省しながら、人格の陶冶を果たそう。だが、もし仮に意図せずであろうと人を殺してしまうかもしれない。その時、ぼくらはどうすればいいのか? うむ、仕方がない。この責任はぼくだけが負うべきだ——パリサイ人が容赦なく投げつける石のような他者からの誹りの全てを、拷問のように絶えず胸を締め付け窒息させる自責の念を抱えながら、けれどそれでも生きていこう。ぼくは、きみは、人を損なってしまうかもしれない、無論損ないたくなどないし、そもそも損なってはならない。けれど(原)世界はカオスだ。なんだって起こる。思考も論理も外れた事件が常にあり得る。だから覚悟しよう。ぼくらは邪悪な結果を引き起こすことがある。ぼくらは人を殺してしまうかもしれない。けれど存在は——いや、「心は」と安っぽいが敢えて言おう——、この心は邪悪に堕ちてはならないし、殺そうと決めてははならない。「善くありたい」、「良い夢を、理想を追い求めたい」、「より良い明日を創りたい」、こういう子供じみた青臭い憧れを、拙い儚い願いを後生大事に抱えながら、自らの責任を従容と、でも十全に引き受ける覚悟を持とう。
でも、きっと大丈夫。ぼくらは自身の「レジリエンス」を、「可能性」を——つまり『存在』を——信頼しよう。傷つけた痛みと傷ついた痛みから、ぼくらは新しい自己を創り上げることができる。その理想はなんだか金継ぎみたいだ、ひび割れた器も、粉々に砕けた器だって、修復すれば何度だって復元できる——そしてその奇妙で歪な割れ目は光り輝き、新しい美しい景色が浮かび、深みのある趣が漂っている。


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