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誰かのために書いた文章は響かない

誰かの役に立つ文章を書く。

いたるところで教えられている文章術の基本である。


だが誰かのために書かれた文章は、僕にはまったく響かない。

不特定多数に一斉送信された営業メールのように、嘘くささと軽薄さが漂うからだ。

やたらと同調してくるセールスマンのように、利己的な下心が透けて見えるからだ。


では僕の心を打つ文章とはどんなものか?

自分のために、自分のことが書かれた文章である。


なぜそれが心を打つのか?

誰よりも知り、誰よりも考えた人物によって書かれているからである。


自分については誰より自分が知っている。

自分については誰より自分が考えている。

いかに博覧強記な学者と言えども、自分以上に自分に詳しくはない。


だからこそ、その文章は響く。

借り物の知識には出せない深みがある。

自分の内面を精緻に描いた文章は、わざわざ役に立たせようと意図しなくとも、自ずから似た内面を持つ誰かの心を打つ。

自己への最大の関心を持つのは自己である。(中略)他人が彼の幸福に対して抱きうる関心は、彼自身が抱く関心に比較すれば、取るに足りないものである。

J.S.ミル『自由論』塩尻公明ほか訳、岩波書店


自分のために書いた文章が読みたい


Noteでフォロワー数が異様に多い人は、たいてい他人のために文章を書いている。

より正確にいえば、最終的に自分が利益を得るための手段として、他人のためになる文章を書いている。


それが必ずしも悪いわけではない。

実際に読者の役に立っているのならwin-winだ。


だが僕が求めているのはそうした文章ではない。

僕が読みたいのはただ純粋に自分のために書かれた文章である。


困ったことに、自分のために文章を書く人はフォロワーが少ない。

抜群に面白い記事なのに1つもスキがないことだってザラだ。

僕が面白いと感じるNoteのフォロワー数は、たいてい一桁か二桁で止まっている。


このようなNoteを自力で見つけるのは不可能に近い。

いま何個か見ているNoteも「スキ」を押してくれたから知っただけで、そうでなければまず探し出せなかっただろう。

(スキを押してくれた人のNoteは基本的に目を通している。もちろん明らかな"営業スキ"でないものに限るが)


本もNoteも……


レビュー数の多いキャッチーなタイトルの本は、たいてい僕にとって面白くない。

レビュー数の少ない地味なタイトルの本のほうが、心を打つ確率ははるかに高い。

Amazonで高評価の本を読むたびに「なぜこれが?」と感じる。


同様に、フォロワー数の多い万人受けしそうなNoteは、たいてい僕にとって面白くない。

フォロワー数の少ない一部の人しか共感しなさそうなNoteのほうが、心を打つ確率ははるかに高い。

Noteで高評価の記事を読むたびに「なぜこれが?」と感じる。

(むろん例外はあるし、あくまで僕の感受性からすればの話だが)


面白いものほど目立たない場所に埋もれているというのは困ったもんだ。

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