Noteで面白いと感じる文章の特徴
Noteで面白いと感じる文章の特徴は何だろう?
ここで言う面白さとはお笑い的なものではなく、興味深い、心を惹かれる、続きを読みたくなる、といった意味だ。
元電通のコピーライターであり、16万部超えのベストセラー『読みたいことを、書けばいい』を執筆した田中泰延はこう語る。
僕の考えはこの真逆だ。
内面を語らない文章を面白いと思うことはほとんどない。
僕が読んで面白いと思ったNoteはどれも自分語りばかりだ。
役に立つ情報はもうお腹いっぱい
役に立つ情報は今やネット上に溢れかえっている。
わざわざNoteで見なくても、ChatGPTの回答や検索結果のトップに出てくる記事で十分だ。
あるいは教養を学びたいのなら、信頼のおける出版社から出ている学者の本を読む。
だからNoteではそれ以外の文章を読みたい。
その人にしか書けない、内面を思いきり開放した文章を読みたい。
では内面を書いた文章であれば必ず面白いのか。
残念ながらそうとも言えない。
内面から出てきたものがどこかで聞いたような紋切り型の言葉ばかりであれば、何の発見も感動もないからだ。
僕が面白いと感じる文章には必ず自省の痕跡がある。
日頃からよく観察し、考え、悩んでいるのだな、という深みが感じられる。
こうした過程を経て生み出された文章は、本やネットから拝借した知識をそのまま使い回しているだけの文章とは明らかに違う。
固有の感受性と経験からしか生まれようのない、身体から出た言葉によってのみ、僕の心は動かされる。
自分語りに心を動かされる瞬間
自分語りに興味を惹かれるのはどんなときか。
ひとつはその文章が個性的だったときだ。
ここで言う個性とは、小手先のテクニックや奇を衒った表現ではなく、意図せずとも内面からにじみ出てくるものである。
「文は人なり」という言葉もあるように、文章には各々の人間性があらわれる。
文章が個性的な人は感受性も個性的だ。
世間が怒っている出来事に一緒になって怒り、世間が喜んでいる出来事に一緒になって喜ぶ文章ほどつまらないものはない。
Yahooニュースのコメント欄はつまらない文章のオンパレードだ。
一般的な社会生活において感受性のマイノリティは不利になる場面が多い。
だが文章を書く際には大きなアドバンテージとなる。
共感者が少ない主張であればあるほど面白い。
(むろんそれは本心と一致したものでなければならない)
あるいはモヤモヤが精確に言語化されたときにも心は動かされる。
人は正体をつかめないものに不安を感じるものだ。
心の中にぼんやりと存在するのだが、その輪郭をうまく捉えられない。
いったいどうやって表現すればいいのかわからない。
そんなモヤモヤが的確な言葉で表現された文章を見ると、近所に出没していた変態がやっと逮捕されたときのようなスッキリした気分になれるのだ。