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シャルレ二番館の思ひ出

さっきまでベン・E・キングのstand by meが
隣の部屋から聴こえてきていた。
娘の敦子は隣の部屋の男と知り合いやったらしい。

何やら楽しげに庭先で話してるのが聴こえてくる。

考えごとをしていたらいつの間にか
隣の部屋からはstand by meの代わりに
No woman No cryが聴こえてきた。

ボブマリーのNo woman No cryか

あの曲はええな。
わたしも昔はよう聴いとった。

No woman No cry
どんな女性(人)ももう泣かないで…か

Cause – ‘cause – ‘cause
I remember when a
we used to sit
In a government yard
in Trenchtown,
わたしは覚えている
あの公営住宅の庭
俺達が座っていた時を…

幸江聴こえとるか?
窓を開けて空を見上げ幸江を探す。

今日は空が真っ青に澄み渡っているんやで。

敦子には「猫がおる…」なんて言うてしもたけど、本当は空を眺めて幸江を探してたんや。
空を見つめてると、長く連れ添ってきた幸江に逢えるような気がして…。

幸江、お前に逢いたいよ。
もう少ししたら逢いに行くからな。

そう思い、深く息を吐いた。

幸江と2人で歩んできたこの長い道のり。
長くも短かったお前との思い出は数えきれないほどたくさんある。
今もふとした瞬間思いだす、
幸江の手の温もり。
そして目を閉じるといまでも思い出す。
幸江のコロコロとした愛くるしい笑顔
「あ、また落としちゃった」
幸江は元々ものをよく落としたり、なくしたりおっちょこちょいなところもあったな。

幸江と初めて住んだのは古い公営の長屋やった。二人でこのシャルレ二番館に越すまでの、20年近くを一緒に住んでいた。

六畳二間の、少し煤けた畳の部屋。

ガラガラと玄関の引き戸を開けると、
昔ながらの上がり框があり、
一段登ると左手には古びた台所があった。
蛇口を閉めてもゆるいのか、時折ポタポタと水道から水滴が落ちてきていた。

部屋に入るには建て付けの悪くなったガラスの引き戸を開けて入る。
するとそこには煤けた畳の6畳二間が現れた。

幸江はそこでいつも裁縫をしていたな。
要らなくなった端切れをどこからか上手に集めてきて、まるで魔法をかけたようにスルスルと実に色々なものを作り出していた。

ハンカチ、斜め掛けカバンそして時には洋服なども…。
よくわたしが工場から疲れて帰ると
「おかえりなさい、今日はこれを作ったの!」と嬉しそうに出来上がった品物を見せてくれた。それを見ると、なんの魔法をかければこうなるのかとても不思議だった。

もともとそれほど身体の強くなかった幸江は、
家に閉じこもりがちだった。
裁縫という特技はあったけれど
ずっと1人でいてもつまらないだろうと、隣の子どもを呼んだ。

その子が敦子だった。

西陽が差し込むこの部屋は、夕方の時間になるととても眩しかった。

幸江は敦子のことを、まるで自分の子どものように可愛がったな。
そんな敦子はいまこうして、身体が不自由になってしまったわたしを助けてくれとるんやで。


幸江あれからもう50年も経ってしもたんやで。
シャルレ二番館に越して数年が経った頃から、お前はもの忘れをし出してたな。
最初は鍵の閉め忘れ、さっきやってたことを忘れる…そんな風なことやったが、そのうち身の回りのことがだんだんと出来んくなっていった。

幸江がニコニコ笑いながらも
「どちら様ですか?」
そうわたしに向かって言った日もあったな。

わたしの顔を忘れても…

ずっとずっと大好きやったで。
ずっとずっと…


「おじいちゃん、桜の花が咲いていますよ」

そのとき、どこかからいまは懐かしい幸江の声がした。
「幸江…?」
その声に振り返ると桜の花びらがひとひら手のひらに落ちてきた。





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