好きになったその日から

「愛してる」

いつものようにゴロゴロしている彼女を、
後ろ手にギュッと抱きしめながら
僕はそのときが永遠に続くと良いなと願っていた。

僕たちは彼女が一人暮らししているこの部屋で、残りわずかな時間を過ごしていた。

初めて足を運んだその日から、
白を基調にまとめられたこの部屋が僕のお気に入りだった。
グリーンのカーペットが敷き詰められたこの場所で、2人でゴロゴロと横になりながら、
思いおもいに過ごすこの時間が好きだった。

お互い就職が決まり、春からは別々の場所で働くことが決まっていた。
彼女は地元の銀行で、僕は市内の塾の非常勤講師で。

残りわずかとなった大学生活は、
就活も終わり卒論発表会も済んで、
あとは卒業式を待つだけだった。


「ねぇ、琢磨せっかくだから大学にいこうよ」
雑誌をパラパラとめくっていた彼女が、僕に向かって突然そんなことを言うから、

「え、大学?!」と思わずビックリしてしまった。

「そう大学!だってきっと、あと数えるくらいしか行かないと思うから。それに、猫たちにも会いたいし…」

僕たちの通う大学は、急勾配の丘の上にあってエスカレーターであがってようやく校舎にたどり着くようになっていた。
その傍に、何匹か猫の親子が住みついていて「ニャァニァア」と勇ましくいつも鳴いているのだった。
彼女はどうやらその猫がお気に入りらしく、僕たちが偶然出会ったのも、そのエスカレーター傍でのことだった。

駐車場から歩いていた僕は、あまりに楽しそうに猫に声をかける彼女が気になって、思わず話しかけてしまったのがきっかけだったのだ。

「ねえねぇ琢磨いいでしょー!行こうよ」
服の裾を掴まれ、せがまれてしまった僕は

「分かったよ、行こう!」と彼女の手を引っ張り起き上がった。

僕は彼女には、とことん弱いことを自分自身で自覚している。中古の車を買って大学まで通学してたから、彼女を助手席に乗せて僕たちは大学へ向かった。

助手席から聞こえる鼻歌交じりの彼女のウキウキした声が聞こえて、思わず微笑んでしまった。

そして同時にあとどのくらい、彼女と一緒に居られるのか分からなくて怖くなった。


僕はー…

僕は小さな頃から体が弱かった。
拡張型心筋症といって、生まれつき心臓が人よりも大きくまた冠動脈という心臓と身体を繋ぐところが、人よりも細く血管の流れが悪かった。

正直投薬治療と入院だけで、ここまで大きくなれたのは奇跡的なことで、移植が出来なければいつどうなってもおかしくないはずだった。

「僕は誰かを好きになっても、その人に辛い想いをさせるだけだ」そう言い聞かせて、誰も好きにならない筈だったのに…

僕は彼女と恋に落ちてしまった。
好きになったその日から何もかも見えるものが違ってみえた。

「僕は誰かを好きになっても辛い想いをさせるだけだ」
初めて彼女にそのことを告げたとき、僕は本当に心臓が止まりそうなくらい緊張していた。
その時にはもうどうしようもないくらい、
彼女のことを好きになっていて、
引き戻すなら今しかないとすら思っていた。

なのに彼女はそんな僕に向かって
馬鹿みたいに笑って、
「そんなこと気にするなんて、ほんまにアホやなぁ」と優しくおでこにキスしてくれるような、そんな人だった。

僕は恋に落ちずにはいられなかった。

僕は激しい運動は出来ないし、大学へだって車で行くくらいには日常生活に気をつけている。
そんな僕に彼女は嫌そうなそぶりを一回もせず、ただ笑って付き添ってくれた。

入退院を繰り返し、生きてきた僕にとって彼女は希望の光そのものだった。

大学について、彼女は車から飛び降りると真っ先に猫たちの元へと向かった。
彼女の軽くウェーブをかけた揺れる髪が眩しかった。

ニャァニァア鳴く猫たちを前に

「皆んな久しぶりやねぇ!元気やった?」と
満面の笑みを浮かべて猫たちに接するその様子をみて僕は軽く嫉妬をしてしまった。

これはもうかなり重症だ。

誰かが置いていったパンの残りカスが、あちこちに散らばっている。
ここの猫たちは皆んなで世話しているようなものなのだ。

猫たちを撫でながら、彼女は僕に向かってこういった。
「あのね、琢磨…ずっと考えてたんやけど…」

その瞬間、ドキッとした。
「え、何…?」

「琢磨ウチの地元に来ない?
うちの地元すごい田舎やから、きっと琢磨にも過ごしやすい場所やと思うの。
部屋ならいっぱいあるし、大丈夫やから」

彼女は振り返ったとき泣いていた。
今まで泣いたとこなんて、見たことがなかったのに。

「わたしこのまま琢磨と別れるの嫌や」
そうやって泣く彼女をギュッと抱きしめた。

僕はそれから色々悩んだけれど、親の反対も押し切り彼女の田舎で暮らすことにした。



ポクポクポク…静粛な雰囲気の中、読経を読む声と木魚の音だけが聴こえる。

あれから5年、琢磨は亡くなった。
最初琢磨のお母さんには、
すごい剣幕で反対されたけれど、
今ではもうその時のことは時効になっている。

「優美ちゃん、ありがとうね」
泣き崩れるわたしの背中を何度も撫でながら、1番辛いはずのお母さんが慰めてくれた。

あの日わたしの選択は琢磨の寿命を縮めてしまったのだろうか。田舎の長閑な雰囲気のなかで暮らしたら、もしかしたら琢磨は元気になるかもしれない。

そう思ってすがるような気持ちで神様にお願いをした。

「あの子が、ここまで生きて来れたのは皆んなの力があったからなの。だからけして優美ちゃんのせいじゃない。あの子のこの5年間は、どんなときよりも輝いてみえたよ。幸せそうだったよ」

そう言って、優しく背中をさすってくれた。

「琢磨、愛してるよ」

好きになったその日から、わたしは愛で満たされていた。
琢磨はいま何を思ってる?
わたしは幸せだったよ

木魚の音と霞む煙が、琢磨と一緒に空に登っていった。




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