写真は過去を記録するものなのか。未来を構築するものなのか。
写真をとることが好きでした。
なんでもかんでもカメラに残しました。
記憶に映像として残しておきたかったのです。
あとで何度でもその写真を手に、その時の喜びを何度でも味わいたかったののか...
いや、
撮られるののは好きではなかったけれど、撮るのことが好きでした。
写真には大好きな人の笑顔や楽しい場面が残されることが多いから。
写真をみると、ただのささいなでき事としての記憶さえも、色鮮やかに彩られ、幸せに満ちた時間であったのではないかと、錯覚さえできるから。
「わたしの人生はいつだって幸せだった」と
視覚から認識することができます。
認識したことによって、さらに幸せが増します。
だからまた、撮りたくなるのです。
なのに、いつからだろうか。写真にまったく興味がなくなったのは。
あるときから撮らなくなりました。いや撮れなくなったのです。
もう何年になるだろう。
でも、今、これからもそれでいいのか、こう、たびたび思考する自分に気が付いています。
だから、同時に、撮れなくなった自分を再度深く認識するようになりました。
ああ、、、娘が、明日生きている可能性がわたしたちよりも限りなく少ないらしいとわかったときからに違いない。
子どもたちの姿を写真に撮るのが特に気が進まないのだから。。
きっと、未来の時に、振り返ってみることを想像することが怖かった。
その時のことを想像すると、自分が笑顔でなくなっていくのがわかりました。
その写真を見ているわたしは、娘のリアルなぬくもりを感じることができないだろうから。
一瞬一瞬を生きてくることに全力を注いできました。
一瞬一瞬ただただ生きて、ふと後ろを振り返ったとき、そこに道が出来ているだろう。その瞬間の事はたまに考えることがありました。
しかし、未来の事を考え、あふれる喜びを感じ想うことはなくなりました。
「この経験が、いつか役にたつよ」
この言葉がしんどく感じるようになったのもこのころからだと思います。
「いつか…」とはいつだろうか。
「いつか…はくるのだろうか。
生きるのがつらくなったかといわれるとそうでもありません。
未来を考えて喜びに心を弾ませることはなくなりましたが、未来を想像して、不安に陥ることもなくなりました。
わたしは、あらゆるシチュエーションを想定して対策を練るタイプ、であったから、もしかしたら、むしろ生きやすくなったのかもしれません。
不安がなくなったのだから。
あ、そうか。
もっと深い撮れない理由がわたしにはありました。
娘が病となってから、わたしの一番の役割は、彼女の動き、雰囲気、すべてをわたしのからだに染みこませておくことだと強く思っていました。
体調が悪くなればなるほど、目を見開いてその姿、表情、仕草、触れた時の感覚、空気感、情景なにもかもを網膜と脳内に必死に記憶しました。
いつでもそれが臨場感をもって再現できるように。
それは、写真ではだめでした。
写真では、選択したフレームの中、枠内での彼女しか記録できない。
わたしが記憶したかったは、フレームや枠からこぼれ落ちたところも全て含んだ彼女でした。
写真では足りなかった。
でも、今、これからもそれでいいのか、こう、たびたび思考する自分に気が付いています。
未来を想い描くときに、ひとは記憶や記録からヒントを得ると思うから。
そして、記憶や記録が振り返った時のそのひとを支える糧になることがあると思うから。
私が写真に記録しておくことが、未来の子どもたちや、誰かの支えや幸せの構築の助けになるかもしれない。
内なる想いはそうつぶやいています。
さ、今日も土鍋ごはんを炊こうっと!
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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