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未完了と完了とを整理する。どんな問題も子どもの頃に愛されたかった、価値を認めてほしかったというニーズが根っこにある。。。自我同一性の調整の役割としての写真NEW3/28 20210204

母のキーボードレッスン中の声を聞きながら、ベッドでスマホを操作して記録。未完了と完了とを整理する。どんな問題も子どもの頃に愛されたかった、価値を認めてほしかったというニーズが根っこにある。。。という表題で202102041252に記したのを発見。

「自我同一性の調整の役割としての写真」という言葉が浮上したので加筆投稿することにした。

バウハウスでの写真展の写真セレクトに至るチョートクさんと小瀧さんとの打ち合わせについての記事を思い出していた一昨日のことである。

さまざまなトリガーが、写真をみるヒトの潜在意識に働きかけてある種の聯関を生じさせるとする立場で進めるならば、最も感受性が敏感な潜在意識が反応しやすいのではあるまいか。
それはかつて満たされることがかなわなかったことで受けたキズ痕への刺激に対する反応なのだとのとらえもある。
だから、一枚の写真をみて、不思議な感じを覚えたり、未来予知的な感覚や既視的な感覚に包まれるなどして、わたしたちの潜在意識が反応する。その反応を言語化して、ノスタルジーとか、メランコリーとかの感情表現としてあらわすことになるのだろう。

こういう形而上学的思索に資する写真を、先人たちは、「形而上学的写真」と名づけたのだろうか。

意識の上では、未解決とは見なすことのなかった過去に受けたこころのキズ。キズついたことさえ記憶の外に追いやったはずのコト。それは封じ込められていただけであり、そのヒトにとっては、解決されなければならなかった課題なのである。一旦保留されたということなのだ。

写真を見て、トリガーにより聯関を生じることで、自身の無意識領域に降りていくという、その解決のための扉が開いたととらえてはどうだろうか。

見る側体験でのキズ痕への気づきによる哲学的探究活動は、キズとして受容され、癒されたキズ痕として昇華されていく。この過程は、その人の自我同一性の確立、人格の完成へと向かう推進力として大きく貢献することになる。何度も生まれ直し、育ち直し、やりなおしのための自分の発見に挑むのである。すなわち、 形而上学的写真は、自己実現と深い関係があるということになる。

まじめな写真家は、見る側にならずとも、自身の形而上学的思索そのものが、見る側のために有効となるトリガーを内包した写真の生成を寄与できることを知っているのだ。

ここまで記録して、ひとまず休憩。

つづきは、ティスロンから

ある事物、ある風景、ある光景を撮影すること、それは単にそうしたものの映像を永遠の現在のうちに凝固させようとしたり、あるいはそれらを──「口唇期」の主題群にしたがうなら──眼差しによって自分のものとして所有しようとしたりするだけのことではない。それは同時に、対象の映像を印づけることによって自らを対象のうちにまで延長し、自分自身の介入の印をもつその映像を自己のうちに包入することでもあるのだ。

それはいいかえれば、写真という世界の「刻印」を、私たちを包容(コンテイン)し、それによって分離を成功させるような刻印に作りかえることである。

写真映像は、二つのことを証言するように求められている。すなわち、一つは、密接な結合がまちがいなく主体と世界にあいだいに存在したということ、もう一つは、この結合は消えることのない傷跡──開いた傷口ではなく──を互いに刻み込むような仕方で、すでに終わって閉まっているということである。

あらゆる人間存在の心のはたらきに刻み込まれた原初的な分離、この傷を乗り越えようとする試みに対して写真のみが行うことのできる無意識的貢献とは、以上のようなものである。

「死の回帰」とはまったく無縁である──

時間軸の流れに沿って、かつて古層に潜った記憶は、無意識領域と対話することで、意識領域へと受動意識できるようになっているのではないだろうか。

意識が対応できる状況にない時、知りたくもないと興味関心さえ向けることがない時、古層に潜るカタチで封じ込められ、顕在意識上は、記憶はなかったこととされていくのだろう。ある種の自己防衛機制であろう。つまり、歴史の修正力が働く。ドラマ「JIN」との聯関より。

上の写真は、「中田京子(2007)認知症はタイムマシーン、VOICEヴォイス」からのトリミング画像である。

認知症はタイムマシーン

認知症とは、お年寄りたちが、自分の人生の最も輝いていた時代ややり残してきたことのある時代にタイムスリップし、人生を再び生き直し完了させていく、魂のプロセスだった。
認知症は、魂のタイムトラベル。
中田京子さん。20数年、認知症の臨床の現場に居続けた心理セラピスト。
中田さんが発見したこととは。認知症とは、時間を超えて自由に過去を旅し、その人の人生の「未完了なことの再体験」や「輝いていた時代の再体験」を通じて、魂の次元で人生を完了させていくプロセスなのだ。ということ。

介護する側がこのことを知って理解したとしよう。
理解したからといって、どうするのだろうか?という問いが生まれる。
介護されることになる、自分自身のこととして受け止めて初めて、誰に取っても有効な現実行動につながるものと考える。


タイムマシーンというシステム
「タイムマシーン現象」
時間や空間といった物理的な次元を超える「自我の着地点」
心のなかで繰り広げられている時代を、そのまま”今、ここ”として承認できてしまう。
「自分の人生全体」に対する自我同一性
「私=全人生」
「これまでの人生」を現在と同じように感じ、そのときの悲しみや喜びなどあらゆる感情をもう一度リアルに味わう。
過去の感情を再体験して味わう旅が、タイムマシーンに乗って出かけるタイムトラベルとなる。
ならば、多くの人格が現れるように見えるのも至極当たり前であることに納得できた。この説明は秀逸の一言に尽きる。感謝。
ということは、認知症になる前に準備しておきたいことで一番大切なのは「心の整理」ということになる。。。!

それを、エンディング・ノートという表現で、示されてきたにもかかわらず、ごく一部の狭い範囲の解釈しかなかった自分を反省。
実は、エンディング・ノートの本質は、人生の総決算に向けての「心の整理」なのだ。タイムマシーン現象をメタ認知しながら、記録していくことで、未来の自分への手紙として活用できればいいのではないでしょうか、という先人研究者たちからの贈り物であったのだと、やっと気づいた。

「形而上学的写真論」における「走馬灯作成プログラム」と重なる。つまり、「未完了」と「完了」がキーワードとなる「心の整理」において同じところがあるなというところ。ここ重要。

完了したと感じるよき時代の痕跡をたどることも含めると、キズ跡というよりも「痕跡」という言葉の方がより適切だということになる。

(以下、部分的に引用する)

タイムトラベルの目的地
やり残したという思いや執着がある「未完了」の時代に戻る
未完了な時代を旅すると、昔味わった焦りや苦しみ、悲しみを再体験する
激怒したり、苛立ったり、おびえたりする。表情は曇り苦しそう。

「完了」した時代に戻る
「完了している」という感覚は、「よくやったな」「やり抜いたな」と自分で思える感覚。
生き生きと輝いていて、周りの者たちも幸せにしてくれる

どんな時代に旅するのであれ、行動を受け入れながら、思う存分タイムマシーンに乗るとみるみる安定してくる。
自分の生き様を確認し、人生の総点検をする。

タイムマシーンの着地点は、音楽や目の前にいる人など、そのとき受けた刺激によって変わる。
また、自身がどんな人生を過ごしてきたかと深い関係があるようだ。
自分の人生に満足し、思いのまま生き抜いたと感じている場合は、本人が最も輝いていた時代に戻り、充実していた頃の生気をもう一度取り戻したかのように振る舞う。
一方、人生に対して、思い残しややり残し感を持っている場合は、まず未完了の時代へ旅立つ。

同じ事実であっても、完了と感じる人もいれば、未完了となることもある。

どのような人生を送ったか、やるべきことをやったと感じ自分の人生に心から満足できているかが、大きなポイントになってくる。

また、心の中では、完了感と未完了感が細かなヒダのようように折り重なっているので、同じ人間が、完了の時代で遊んでいるときもあれば、未完了の時代へ行っているときもある。おそらく、その時点で自分にとって一番必要な行き先を、ほとんど無意識のうちに選択しているのだろう。
人生は、未完了パーツと完了パーツとの両方のパーツが組み合わされた、パズルのようなものだということに気づかされる。

要は、誰にとっても、人生の総点検が必要だということ。

未完了と完了とを整理する。
未完了を完了させるにはどうするとよいか。できることはする。できないことは失敗学の考え方を適用する。
感情を再体験することで、思い残しを発散すると、「自分は完了できたな」「しっかりとやれたな」という納得までたどり着けることが多い。
たとえ、たどり着けなくとも、「こうするとやれたかもしれないが・・・できなかったのだから、まあ仕方ないか。今度そうなったらやれるといいな。失敗学として残そう。
それでも、という問題には、「ゆるす」「あきらめ」という概念で解決したらどうだろうか。「悟り」に近い考えであり、哲学的ではあるが。
往々にして、未完了を未整理のまま適当に放置したり、ごまかしたりしてしまうと、後からのツケが非常に大きくなると予想される。
自分自身に対しては、一番誠実でありたいものだ。それが自分を大切にすることにほかならない。
そのためには、日々、いたるところに人生の総点検を求める機会が多くあることに気づかされる。その気づきを大切にしよう。
その都度、小さな人生の総点検を繰り返して積み重ねることこそ、豊かな人生だと実感できる終活そのものだと言えるのだろう。
同時進行で、どこまで「悟れるか」である。「人のせいにしない」ことから始まるのではないかという仮説がある。
「ひとのせい」にできないのは、「自分のせいにしたくない」だけだろうから。0か100かの完全主義的な原理主義はとくに危険である。

「素直さ」を奥深く考えてみるといい。自発的に受け入れている場合と他律的な場合。自発的であっても、利害を考えての振る舞いかどうか。自身の思想信条として、生き方の基準に合致するからこそ受け入れた素直さでないと、総決算の時に露呈して、未完了ということに気づかされることになる。
自分を形成している根幹が何なのかを問い続けながらよりよい自分を再構成し続けること。その繰り返しをしながら、自分の人生を整理していくという営みこそ、人格の完成をめざすことを人生の目標とすべき根拠であることに気づくのだ。

それが、認知症になってからのことなのか、それ以前に整理しきれていたことなのか。いずれにせよ、必然行動なのだと受け入れることができればよい。

それだけのこと。

困難が予想される思考のクセがあるということも、何らかの形で気づきの機会があるといい。
メタ認知できるうちに、当たり前の思考形式になるよう修正しておこうということこそが、老いに備えるという特効薬の働きをするのだと思う。

未完了感
「ニーズ」とは、「愛してほしい」「理解してほしい」「かまってほしい」「注目してほしい」などの心の渇望。
これは、誰もが潜在的に持っている。
ニーズが満たされなかった経験は、未完了の場面となって心の奥深くにたまっていき、大人になっても見え隠れしながら人生に影響を与えていく。

タイムトラベルは、浄化のための旅
感情は再度味わうことで、浄化されていく。

同じ場面を何度か再体験していくうちにネガティブな感情は消え、次第に「仕事でこういう成果を出したな」「けっこう愛されていたな」「自分は頑張ったな」という感情へシフトしていくパターンが多く、未完了時代への旅をエンドレスで続けることは少なくなる。
「仕事が大変」「毎日が忙しい」「お母さんに甘えたい」という感情を1回、2回と再体験し感情を発散すること、そして自分自身が納得いくまで体験することに意味がある。
こだわりがあるからこそ、そん時代を選んでタイムトラベルする。
感情を再体験して思い残しを発散すれば、「自分は完了できたな」「しっかりとやれたな」という納得までたどり着くことができる。

++++

昨年2月における母(認知症と診断されて数年経過した人)の状況をいかに理解するのかという観点が、自分の問題意識であった。写真論を構築しようということと合わせての考察が加わることで、このことを「形而上学的写真論」に組み込んで写真してみようとする試みであったという気づきが得られたのである。

認知症のように、意識が解放され、無意識とのオートマチックな対話ができる状況にあれば、タイムトラベルできるわけだ。

認知症になっていなくとも。。。できるよね!

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