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2010年代、ネオリベアイドルの誕生―AKB48・乃木坂・欅坂・日向坂はなぜ流行したか?


こちらは私の趣味で書いた「2010年代アイドルと新自由主義の話」なのですが、記事を加筆修正したものが、2021年11月22日発売の『女の子の謎を解く』(笠間書院)に収録されます! 記事が面白かったらぜひ本のほうもよろしくお願いします~。


はじめに――2010年代のアイドルはネオリベの夢を見るか?

新自由主義、ということばをよく聞くようになったのはここ数年のことのように思う。

ネオリベ。自己責任。個人主義。競争社会。全員が市場原理に巻き込まれ、市場価値が隅々まで行き渡った社会。だからこそ市場価値がないとみなされた存在が隅に追いやられてしまう社会。頑張らないと生きていけない、なぜなら市場はどんどん私たちを取り込んでくるからだ。

「わ、考え方がネオリベっぽい」と私たちが言うとき、ネオリベはポジティブな意味を持たない。それはあまりに自己責任を重視しすぎる、セーフティーネットのない競争社会を指向しているよね、という確認である。

「新自由主義」っていうと一般的には、80年代のサッチャーやレーガンの時代の話だ。では日本の話はどうかといえば、たとえば上野千鶴子は、小泉改革やその後の時代の格差拡大を伴う政策――つまりは2001年代以降の政策のことを「ネオリベ改革」として説明している。(2013年刊行『女たちのサバイバル作戦』より)

上野千鶴子にならってネオリベ的な政策が誕生したのが2000年代だとすれば。その結果が私たち民衆の間に本格的に広まったのは、おそらく2010年代くらいだろう。

しかし私はネオリベについてつらつら述べたくてこんな文章を書いているわけじゃない。私は2010年代のアイドル流行の変遷――AKB48グループ、乃木坂、欅坂、そして2020年に台頭しつつある日向坂46――の軸は、結局「私たちが新自由主義とどう距離をとってきたのか」にあると思っている。

なぜ彼女たちが流行したのか? マーケティングがよかったから? 事務所がプッシュしたから? それよりももっと、当時の日本のとくに若者を中心する人々のなにか心の奥にある労働者的気分、つまりはネオリベ的なものと、アイドルのありかたが、近しかったからじゃないだろうか、と。

この記事では、AKB48、乃木坂、欅坂、日向坂の流行の原因を、「私たちが新自由主義的な気分をどうとらえてきたか」に求めてみる。10年前、2010年代の初頭から思い出していただきつつ、アイドルオタク的2010年代回顧論として読んでもらえると嬉しい。


1.AKB48と市場で傷つく少女たち――いや女子高生にドラッガー読ませるなよ


ところであなたは2010年代の幕開け、ベストセラーになった本を覚えているだろうか。

AKB48のどセンターこと前田あっちゃん主演で映画化された、こちらの本である。2009年の暮れに発売され、2010年のベストセラーになった。

そして同じく2010年のオリコンCDシングル年間売り上げランキング1位はAKB48の『Biginner』、2位は『ヘビーローテーション』、3,4位が嵐で、5位が『ポニーテールとシュシュ』である。

(へ、平成~~~~~。と言いたくなる動画……あああれなちゃん……)。

名実ともにAKB48がトップアイドルになった2010年。ベストセラーになった本は、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』だった。しかしこの本をあらためて読んでみると、めちゃくちゃネオリベ的なのである。

あらすじは、弱小野球部のマネージャーになった女子高生が、ドラッガーの『マネジメント』を読み、企業のマネジメント制度を野球部に使用することで勝利へと導く……というもの。そこにはたとえば「野球部にとっての顧客って誰なのかな?」「観客じゃないかな」なんて会話が登場する。「マネージャーは顧客や従業員のニーズをくみとって、組織の目的を定めなきゃ」と、女子高生みなみちゃんはマーケティングを学ぶ。

しかし冷静にマジレスをすれば、野球部は企業ではない。(もちろんこんなマジレスをつけるべき本ではないのは百も承知なのだが)。野球部は、けして企業のように、誰かに価値を提供するための組織ではない。学生が、野球をするための場だ。だけど本書はそこに、強引に「価値を提供する相手」を登場させる。そして読者に「なるほど、じゃあ今の自分にとっての顧客って誰だろう」と考えさせる。

新自由主義、ネオリベラリズムの特徴は、私たちを一人残らず、市場に引きずり込むことだ。だれもが競争社会の一員で、ほんとうは競争しなくていいはずの場所ですら(福祉が守る場所すら)、競争させられる。そして生き残るための努力をしなきゃ生き残れない、というシステムに巻き込まれる。

野球部がなぜか「顧客」を設定したように、私たちもまた、なぜか「顧客」を設定させられる。本書が2010年に流行したのは、そんな「ふつーの女子高生も、あなたも、みんなマーケティングを学んで、市場に適応していきましょうね!」という空気をうまく汲んだからではないだろうか。

そしてこのいかにもネオリベ的物語の映画化にAKB48がキャスティングされたのは、決して偶然ではないと思う。

ちょっとださい言い方になってしまうが、AKB48は、「新自由主義のなかで誕生したアイドル」だよな、と私は言いたい。

モーニング娘。や松田聖子や山口百恵といったアイドルたちとは違う、AKB48の大きな特徴といえば「大勢の女の子を集めて、競争させる」というフォーマットだ。私たちが想像する以上に、AKB48のメンバーは「市場のニーズを汲んで自分で自分をプロデュースすること」を求められる。誰かえらいおじさんがキャラを作って、それに則った発言をするようなアイドルではない。とにかく自分で自分を売り出すアイドルだ。そしてその結果が、ファンの握手会や総選挙といった「市場」の売り上げに反映される。SNSも本格的に流行り始めた時代だったため、AKB48のメンバーは、今でいうインフルエンサーの先駆けのような、SNSやブログを使ってファンを自分で増やすアイドルでもあった。

たとえばAKB48のメンバーは人数が多いため歌番組などでもほとんど自分でメイクをするらしい。韓国のアイドルは髪型までプロデューサーが決めるというが、AKB48は自分で本番のメイクまでするのである。プロのヘアメイクさんはどこへ!? と素人からすると驚いてしまう。ちなみに、AKB48Gの卒業生は、意外と経営者として成功しているメンバーが多い。もしかするとこうした市場の需要をなんとなくつかむ素地ができているからかもしれないな、と思う。

握手会の券を買ってもらい総選挙でどうやって得票するか自分で考え、そして順位をつけられることに傷つきながら、それでも自分の夢を追いかける。いかにも新自由主義的な競争社会で生きる少女たち。それがAKB48のコンセプトだった。

総選挙のスピーチも朝の情報番組で放映されたり、過酷なステージ裏がうつされたドキュメンタリー映画が話題となったりと、絶え間ない競争社会できりきりと踊る少女たちの姿はたしかに人気を博した。

ではなぜ彼女たちの市場で傷つく姿は、こんなにも広まったのか。それは私たち自身が市場で傷つく姿を投影していたからではないか。と、10年経った今、思ってしまう。AKB48の少女たちが夢をみるとき、市場で戦い、傷つくことを求められる。それは、お茶の間にいた私たち自身が、市場で傷ついていたからではないのか、と。

ものすごく雑に時代論を言ってしまえば、当時は冒頭に述べたようなネオリベ政策の影響で、格差も仕方ない、順位が下の人間は非正規雇用も仕方ないのだと言われた時代だった。私たちは、知らないうちに、傷ついていたのではないだろうか。市場でないがしろにされることに傷ついていたからこそ、私たちは、市場に傷ついて、だけどそれでも夢を見る少女たちに、自分を投影し、惹かれていたのではないか。

ちなみに非正規雇用の女性が主人公である津村記久子の小説「ポトスライムの舟」が芥川賞を受賞したのは2008年、企業を舞台にした池井戸潤の小説『下町ロケット』が直木賞を受賞したのは2011年、就職活動をテーマとした朝井リョウの小説『何者』が同じく直木賞を受賞したのは2012年。どうもこのあたりの2010年代初頭で、2000年代以前に流行った愛や恋といったテーマとは異なって、「労働や市場(お金を稼ぐこと)が、自分たちにとって重要なテーマだ」とみんな勘づいていたのではないか、と私は思う。アイドルだって、労働する少女だし。


2.乃木坂46と市場からの逃走――逃げ恥とコンビニ人間の2010年代中盤


2011年に結成された乃木坂46が、はじめてミリオンセラーを生み出したのは2016年のことだった。橋本奈々未卒業シングル『サヨナラの意味』。

(ああななみん………。わたしは乃木坂ではいちばんななみんが好きです……)。

前年の2015年に『君の名は希望』で紅白初出場。2017年に『インフルエンサー』でレコード大賞。つまり乃木坂46の躍進、流行は、2010年代中盤の出来事だった。

その乃木坂46のメンバーを追いかけたドキュメンタリー映画を観ると、彼女たちには一貫した物語があることに気づく。それは「乃木坂に入る前は、居場所を見つけられなくて孤独だったけど、乃木坂に入ることで居場所を見つけられました」という物語だ。

こんな美少女たちが居場所を見つけられないっていったいどういうことなんだ……とつっこみつつ、彼女たちの物語はつねに「乃木坂46が、外界では見つけられなかった私の居場所だ」という言葉に支えられる。AKB48がむしろ外界から隔離されて競争の場としていたのとは正反対だ。つまりAKB48グループはそのフォーマットそのものが「市場」だったのに対して、乃木坂46のメンバーは、どこか乃木坂という場を「争わなければいけない市場からの逃げ場」と見ている。

秋元康が作成する歌詞もまた様相が異なる。AKB48グループの曲が「Biginner」や「RIVER」のような戦う少女たちの歌詞だったのに対して、乃木坂46には「君の名は希望」「シンクロニシティ」のような、誰かに寄り添う主人公を描いた歌詞を提供することが多い。おそらく彼女たちの発言やグループとしての特徴をとらえてのことだろう。

外の世界では孤独を感じていた美少女たちが、はじめて見つけた居場所。それが乃木坂46という物語だった。

私はこのグループが2010年代の中盤で流行したのは、これが時代に合った物語だったからだと思う。

先日SPドラマが放映されていたTBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が爆発的に人気になったのは、乃木坂がミリオンセラーを出した2016年のことだった。また同じく2016年、『コンビニ人間』が芥川賞を受賞し、ベストセラーとなる。2016年に流行したこの二つの作品に共通したテーマは、まさしく「市場からの逃走」だ。

うまく就職市場に乗っかれない、うまく恋愛市場に乗っかれないふたりが邂逅し、知恵と工夫をもって居場所を見つけていく「逃げ恥」。ふつうに生きてたら人とうまくかかわれないが、コンビニという決まったオペレーションに守られた空間ならばちゃんと居場所を見つけることができる『コンビニ人間』。どちらも、「自由に競争しろといわれたらうまく乗り越せない人々が、あえて市場から逃げることで、自分の居場所を見つける物語」である。

だから平匡さんはアプリで恋人を見つけないし、みくりは普通の就活だったらなかなか職を見つけられないし、古倉はコンビニを「はじめて人間として誕生した」空間だと感じる。同じように、乃木坂46のメンバーもまた、殺伐とした元の場所から逃げて、乃木坂という居場所を見つける。そしてファンもまた、少女たちが仲の良いユートピアのような空間を、乃木坂に見出す。

自由に競争しろって言われるこの市場から、逃げたい。そしてどこか安心できる場所で居場所を見つけたい。――そんな私たちの欲望が、「逃げ恥」を、『コンビニ人間』を、そして乃木坂46を、発見せしめた。のではないだろうか。


3.欅坂46とフリーランスの孤独――黙ってたらトランプ政権


2015年にデビューし、翌年2016年には「サイレントマジョリティー」という曲で一躍トップアイドル集団に躍り出たのが、欅坂46というグループだった。

(私は『世界には愛しかない』と『二人セゾン』が好きでねえ……。ああーねるちゃん………)。

じわじわと人気を爆発させていった乃木坂46を横目に、欅坂46が一躍有名になったのは、『不協和音』という曲が流行した2017年、2010年代も終盤に差し掛かっていた。

欅坂46の歌詞は、つねに主人公が「集団」との軋轢と孤立を繰り返す。

『サイレントマジョリティー』では「集団から独立し、一人になって声をあげろ」と言われ、『不協和音』では「僕は集団に対してNOを言う」と宣言している。しかし『アンビバレント』では「一人でいたいけど、やっぱり一人ではいられない」と愚痴り、『黒い羊』に至っては「集団にNOを言って一人になるのはつらい……」と弱音を吐く。そして欅坂46最後の曲『誰がその鐘を鳴らすのか?』では「誰もまだ鐘を鳴らせていない(=集団に本当の意味でNOをつきつけられた人はいない)」ことを知らせる。

いかにも日本的な、同調圧力に対してどうやって個人を守るのか? という物語にも読める。(古くは夏目漱石なんかがテーマとしてきた、いかにも日本っぽい主題である)。だけど一方で、新自由主義という「個で自由に競争せよ」と言われ続ける社会が浸透してきたからこそ、欅坂46の歌詞はこんなにも若者に刺さったのではないだろうか。

2010年代後半から終盤、働き方改革と声高に叫ばれ、「副業」や「フリーランス」といった働き方がもてはやされた。会社や組織に頼らず、個で稼げ、と説かれる。それはまるで欅坂46の歌詞のように、「個であれ」と私たちは命令され続ける。自分の意志を持て、グローバル化社会のなかでうまく市場を乗りこなせ、ブラック企業に搾取されるな、株とか投資とかちゃんとやって自分の老後資金は自分で稼げ。集団に頼るな、と。

だけど同時に、集団から離れるのは、つらいのだ。

ほんとは会社のなかで白い羊のように群れていたい。働いてたら自動的に年金で暮らせるようなシステムに取り込まれていたい。長いものに巻かれたい。大きなものに守られたい。

でもその「大きなもの」すら、もう見つからない。乃木坂46のように、私たちだけの居場所だなんてやさしくてぜいたくな空間、どこにも見つからない。美少女がお互いを慰めあうのなんてテレビの中のファンタジーであって、本当はもっともっと切実に、個で生きるのは、集団から離れるのは、しんどい。――そのしんどさを、欅坂46は、平手友梨奈さんという「個」をスターとしながら、彼女が集団の中で苦悩する姿とともに歌った。

就活や会社でつらいときに『不協和音』を聴いた、という話を私はたまに聞く。それはつまり、のほほんと労働することを許されない、黙っていたら組織に搾取されてしまうが、総選挙で上にのし上がる=市場を乗っ取るほどの気力もない、そんなそれぞれの「個」の姿ではなかったか。

欅坂46が流行した2016年から2019年は、ちょうど社会情勢で言えば、トランプ政権・安倍政権の時代とそのままかぶる。2018年には『万引き家族』がカンヌ最高賞を受賞、2019年には『パラサイト』が公開されていたが、どちらも社会のなかで取り残された「個」の存在を描いていた。社会における「集団」と「個」のバランスが崩れてゆく、そんな時代の産物が、欅坂46だったのではないだろうか。……どうでしょう。


4.日向坂46と冷たい市場のささやかな幸せ――炭治郎もNiziUも目指すもの


そして2010年代は終わり、2020年。新型コロナウイルスは流行し、トランプ政権も安倍政権も終了し、2009年から連続出場していたAKB48は紅白歌合戦に出場せず、欅坂46の平手友梨奈さんはグループから脱退し欅坂46というグループ自体が消滅し(「櫻坂46」に改名した)、そしてなにかの時代を終わらせるかのように乃木坂46のトップアイドル・白石麻衣さんも卒業した。

2020年、世間的には新型コロナウイルス一色の年だったのだろうが。私としては、なんだかAKBも乃木坂も欅も、2010年ごろから脈々と続いていた一時代が一区切りついたような、それが2020年であることがなんだか必然だったような、不思議な気持ちだった。2020年、46,48グループオタクとしてはけっこう激動の一年だったのですよ……。NMB48のアカリンも卒業したしさあ。

もちろんAKB48グループのことをまだまだ応援してるし(ゆきりんのyoutube動画は革命的でしたね!? あと鈴木ゆうかりんに期待)、乃木坂46の四期生みんなかわいいし(『I see…』、大好き!)、櫻坂46の新曲とてもよくてびっくりしたし(『なぜ恋をしてこなかったんだろう?』めちゃくちゃいいですよね)、各グループのなにかが終わったなんて言うつもりはない。ここから、のメンバーがたくさんいる。

そしてまさにここから、のグループとして、乃木坂46、欅坂46の妹分である日向坂46が存在する。

日向坂46は、「けやき坂46」という欅坂46のアンダーメンバーだったグループが改名して2019年に生まれた。そして2020年、紅白歌合戦に二回目の出場を果たし、まさに今からAKBや乃木坂欅坂のごとく売れるか売れないか、という場所にいるアイドルだ。

曲を聴いてもらえたら分かるのだが、彼女たちの曲に、思想性はマジでない。「ハッピーオーラ」をコンセプトとする日向坂46の歌詞は、とにかく「恋した」「キュンときた」「好き!」という彼女たちの明るさを照らすものになっている。

乃木坂や欅坂でわりと哲学的な歌詞を書いていた秋元康はどこへ、と言いたくなるほどの「とにかく明るい日向坂」っぽい歌詞なのだが、その明るさこそが、むしろ今の時代に求められているものなのか、と考えられる。

2020年に大流行した『鬼滅の刃』なんかを見てても思うのだが、主人公がとにかく優しく、繊細なのだ。もう誰も死なせない、という台詞もあったが、主人公・炭治郎は、自分の夢のために努力をするわけではない。彼は「誰も死なせない」ために努力を重ねる。ここに新自由主義という補助線を張ると、彼はぼーっとしてたら(努力しなければ、弱いままでいたら、お金がなければ)搾取され、自分の大切な人まで奪われることを知っている。だからこそ強くなるために努力する。それは決して、自分の夢のためなんかじゃない。家族で暮らすというささやかな幸せのためだ。

日向坂46もまた、市場のなかで大それた自分の夢をかなえることなんて歌わない。個になれなんて言わない。キュンときた隣の席の可愛いきみに、ハッピーにしてもらえたら、それだけでじゅうぶんなのだ。

だから日向坂はひたすら「ハッピーオーラ」だけを届ける。乃木坂や欅坂と比較すると日向坂はバラエティ番組で活躍するメンバーが多いのが特徴的なのだが、バラエティ番組という「ただ笑うことを目的とする」フォーマットを得意とするのも、なんだかますます、ひたすら明るい日向坂という一面を特徴づけている気がする。

新自由主義という冷たい風が吹く現代、しかもコロナウイルスの流行によってますます殺伐とする2020年。だからこそ日向坂46は、陽射しのあたる場所を作る。あえて思想の入り込まないひだまりを。そこだけはあたたかい、ハッピーオーラにあふれた、明るい空間を。だから笑いにも特化する。

そういえば、2020年の流行したアイドルグループNiziUの曲も『Make you happy』というタイトルで、奇しくもテーマはほとんど日向坂46とかぶる。きみを幸せにするよ、笑っているのがいちばんだよ! と。目指す場所は、ただの幸せ、だ。

もうだれも、市場で誰かが傷ついたり、出し抜いたりするのを見たくない。そんなの、もう、現実でお腹いっぱいだ。せめてアイドルくらいは、楽しく優しく明るくあってくれ。

……そんなふうに私たちは欲望する。だからアイドルは今日も、ステージの上で、テレビの中で、笑ってくれる。



おわりに――秋元康の手腕じゃなくてさ


ここまで書いてきたら、絶対言われるのが「いやこれ秋元康のマーケティングやん」という話なのだが。48,46グループって秋元康グループでしょ、秋元康がみんなの需要をマーケティングした結果、こんなふうに需要に応えるアイドルがつくられたんでしょ、と。

でも私は、たしかに秋元康マーケティングもあるんだろうけど、一方で、意外とこれって「少女たちをたくさん集める」という力学によるものなんじゃないか、と思っている。

というのも、48,46グループのファンでいればいるほど、秋元康の場当たり的な、ある種、放送作家的な「とりあえずフォーマットを用意して、その場で演者たちが動くさまを見て、いちばん面白そうな線を採用する」手法を見ることになる。たとえば乃木坂46や日向坂46が、述べてきたような路線のアイドルグループにしようと思ってつくったグループだとは、到底思えない。少女たちのキャラや、人気の出るタイミングを見ながら、「こんな歌詞はどうかな」「こんなコンセプトはどうかな」とあくまで場当たり的にプロデュースしているように見える。(もちろん、たとえば映画やドラマに出演させたり、バラエティや写真集を用意したり「人気の起爆剤となる」場を作ることはしている。が、コンセプトにおいてはものすごく曖昧に進めているように見えるし、欅坂みたいな、最初から物語がはっきりしているグループは例外的だ)。

どちらかといえば、少女をたくさん集めることによって、市場――つまりはファンやオタクや世間なわけだが――にいま誰が好きかを決めさせる。その市場の感覚を重視することが、新自由主義時代のアイドル像と、かちっとハマったんじゃないかと思う。(たとえば「もう誰がセンターか、ファンに決めてもらおう!」とAKB48の総選挙が始まったエピソードは有名だ)。

KPOPの進出も甚だしいし、おそらくまた、2020年には勢力図も変わるだろう。新自由主義的な風潮もどうなるかわからない。

だけど2010年代には、たしかにたくさんのアイドルたちが、新自由主義の冷たい風が吹きすさぶ日本で、私たちをすくおうとしてくれたのだ……ということを残しておきたかったのだ。書けて良かったあ。

「推し」なんて言葉にはちょっとあぶなっかしい気持ちに私はなるのだけど、それでも好きな女の子たちがそこにいてくれるのはありがたいことです。2020年代も、ちょっとでもアイドル界が楽しいといいな。


加筆修正した記事が収録される『女の子の謎を解く』、笠間書院さんから2021年11月22日に発売です! 重ね重ねよろしくお願いします!


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