「魂」というのは存在すると思う。というか、存在しなきゃ困るのだ。あのとき聴いた音楽。読んだ文章。打たれた景色。 「魂」という言葉を用いずに、あれらを説明する術はない。 この世からなくなってしまってもさして支障のない言葉と、そうでない言葉の数々を考える。 「時間」とか、「ごめんなさい」とか、友人の名前とか。 じゃあ、そういった不可欠な言葉だけを残して、他のすべてが消え去った世界で生きていけるのかというと、きっとそうではない。 「菜箸」とか、「ルーメン」とか、「ガジュマル
今日の雨はいい雨だ 何も考えなくて済むから The CHANG 「今日の雨はいい雨だ」 確信の脆さを知ったらまた来週 Lantern Parade 「キンモクセイの匂いがして」 いずれこの冬も数えられる 北園みなみ 「冬を数えて」 僕が都会で死んだ猫ちゃんだったなら こんどはひとになりたい 涙を流したい betcover!! 「ゆめみちゃった」 君のこと嫌いにならないように頑張ってる こちらは カネコアヤノ 「Cats & Dogs」 ごめんなさい 神様
会社の同期A。 筆記用具でたとえるなら、ホッチキスに似ている。 みんなをまとめる。 いないと困るときがある。 高校の同級生B。 かまぼこでたとえるなら、カニカマ。 品はいいが親しみやすい。いい意味で高級感がない。 おかん。 おとんでたとえるなら、ちびまる子ちゃんのヒロシ。 いつもお酒を呑んでいる。 電柱。 料理でたとえるなら味噌汁。 暮らしを支える。 ホッチキス。 知人でたとえるなら会社の同期A。 取り扱いに注意。 広辞苑。 物置きでたとえるならイナバ。 何でもの
電車は少しずつその中身を入れ替えながら進む。 この骨と血。 僕の記憶を構成する神経組織は3ヶ月かけてオーバーホールされる。 電車は少しずつその中身を入れ替えながら進む。 スーツ。洋服。ロリータ。ボロ衣。若い男。老いた女。 選ばなかったすべての路線はたしかに有り得た未来を示している。 僕が座っていたかもしれない座席。掴まっていたかもしれない吊革。降りていたかもしれない駅。 地位。名誉。夢。 電車は少しずつその中身を入れ替えながら進む。 人が過ぎ、人が来る。 降りる人がいて、
失恋でポエマーになってしまう人ほど、短期間でけろっとしてしまうことが多い。 修飾に修飾を重ねたあの泣き言はなんだったのか。 ああいう連中のたいていは女だ(偏見(ごめん(土下座)))。明日の天気は晴れなのだけど、小学生のときに「ぼくのなつやすみ2」をやりすぎたせいで、ザリガニ釣りを実際にやった経験があるのかどうか記憶が曖昧で困る。Howdy World。文章というのは賭けの連続だ、とブコウスキーがどっかの本の何ページかで言っていた。 あるセンテンスAのあとに何を書くかは自由
僕は知人から論理的な人物だと評されることが多いが、合理的な人間では決してない。 論理的と合理的、このふたつは似通っているようにみえてまったく異なる属性だ(と僕は考えている)。 ここでは個人的なイメージについて述べる。 論理力というのは、アルゴリズムを正しく遂行する能力だ。演算子を正しく用いれば、ただひとつの解に辿り着く。1+1は2であって、それ以外ではない。「+」の意味を誤解しないかぎり。 +-×÷といった演算子は、日常語でいえば「だから」、「したがって」、「なぜなら」
映画の感想を訊くとすぐ「泣いた」とか言うやつがでてくるが、ああいうやつはだいたいなぜかドヤ顔である。 「〇〇めっちゃ良かった〜わたし泣いた」 「おもろかったっすよ。おれ、泣いたすもん」 信用できない。なにかを褒めるとき簡単に「泣いた」と言ってしまう人を信じられない。 長年抱いていたこの違和感を言語化してみる。 1. まず第一に、「泣いた」とか言われても、それはお前の涙腺次第やろ、という問題がある。 涙の重みは人によって千差満別だ。転んだだけで泣くやつもいれば、気失っても血反
この1ヶ月はべらぼうに忙しかった。自分は今アルバイトを週6日で入っている。歓楽街の焼肉屋だ。しかも食べ放題。当たり前だが、食べ放題ともなれば食べる方だって忙しい。つくる方ならもちろんなおさら。阿呆みたいな仕事だ。特に今はバイトリーダーがくそみたいな男でみんなシフトに入りたがらない。欠員が出てより忙しくなる。だからいっそう働く気力が失せる。負の循環。 それでも遊ぶ金欲しさにバイトを入れる連中がいる。自分を含めてそういうのは決まったメンバーだ。毎回のように顔を合わせ
10代が終わり、他人への関心がゆっくりと薄れてきた。それに応じて自分から他人に期待する関心の割合も減ったようでこの頃はなんとなく生きやすく感じる。思春期自意識フィーバータイムは終わりを告げた。 他人の内面なんか知ったってどうしようもないし、他人から理解される必要も無い。そう思い始めてからは無為に自分を大きく見せることもなくなった。もともとマウントを取るタイプではないと思うが、軽く見られたくないというプライドは頑としてあった。そりゃ今でもトイレから出てきたあとでうんこなんてし
まだ自然科学のなかった時代、世界の成り立ちについて語る唯一の手段が神話だったわけだけれども、世界各国のあらゆる神話・宗教が「世界はどのようにして生まれたか」という問いに対して出した答えは3つに大別されると丸山眞男は述べている。 神が宇宙を創造した 神が出産することで宇宙が生まれた 宇宙は植物のように生成した 1は言わずもがな一神教による説明であり、旧約聖書の創世記はまさにこういった説明をしている。 古事記は3に分類されるらしく、2は1と3の中間で多くの多神教文化がこ
朝陽は辺りを満遍なく照らしてしまう。それに比べて夜の外灯。スポットライトのような。それでいて映すのはあてどなく歩く哀しい人ばかり。丸まった背中のアーチに影が射す。彼には名前がない。戸籍があってもそれを知る人がいないから。 たとえば晴れ渡る日の朝、路上に鏡を置くと青空を見下ろすことができる。片手に収まる空が足下に。そしたら次に鏡をひろって歩きだそう。きみは青空をポケットにしまうことができる。 夜の外灯はそうはいかない。鏡を下ろして覗くと、光が深淵みたいだ。何もか
中島らもやチャールズ・ブコウスキーといったドライな文章を書く作家が好きだ。ドライと言っても彼らは感傷的で耽美な文を書いたりする。郷愁に思いを馳せたりする。「青を売る店」、「美しい手」、「町でいちばんの美女」。 ではなぜ彼らにドライな印象があるかと言えば、たぶん自分を突き放しているから。この、「突き放す」という按配がむずかしくて突き放すつもりで自分を下に置きすぎると卑下になる。 卑屈さには湿気がある。 卑屈・僻みを自虐ユーモアにしているのが森見作品の特徴。彼にも湿度の高い
あれは中学2年生のとき。 ひとつ前の席の女の子のLINEプロフィールが「恋って言うから」と書かれたポエムに変わり、後ろの席の男子のプロフィールが「愛に来た」に変わった。 僕たち3人は窓際の最後列の席だった。授業中、2人はよくカーテンの中に入って見つめ合った。 心理学には「ロミオとジュリエット効果」と呼ばれる現象があって、これは恋仲のあいだに障害があるほうが恋愛のボルテージが上がるというものらしい。 障害になるのは一般的に親の反対が多いだろう。 僕は気づかぬ内に障害となって、
12月。木々が光りだす。 しかし、街路樹に蛍光を巻き付ける作業員の姿を見た者はどこにもいない。 それもそのはず、植物は自ら発光しているのだ。 学名ヘデラ・ランテルナと呼ばれるその蔦は 冬になると自生し、辺り一面にランプの光を咲かせる。 あまり知られていないが、光の正体は胞子である。 だから正確に言うと、この蔦は植物ではない。 ヘデラ・ランテルナは菌類であり、 茸の仲間と言えば分かりやすいだろう。 毒性は緩慢。 近寄る人に一種のせん妄状態をつくり出す。 雪の降る夜、うっかりと外
空気の淡いひとになりたい 風のような光のような 存在感の水色のひと 炎のようにすり抜けたい ひとのこころに火をつけて 書物、哲学、燃やしてしまう 波のような心でいたい 満ち足りつつもどこか孤独で 流れるように流されていく 草木のようにそっと死にたい 花弁のようにまぶたを閉じて 土になるまで眠りつづける
飛び降りるときって、落ちてるって思うのかな 空が上がってるって思うのかな────── そう云った齋藤は死んだ。19だった。合掌。 青酸カリってどんな味だろうね 美味しい毒物が知りたい─────── そう云った小林は死んだ。料理が趣味だった。合掌。 ねえねえ、宝くじが当たったらきみはどうする?──── そう云ったケンちゃんは死んだ。雷に打たれて。 確率を愛し、確率に呪われた漢だった。合掌。 カイリキーなっちゃった─────── そう云った有くんは死んだ。脇見運転だ