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映画みてすぐ「泣いた」とかいうやつ

映画の感想を訊くとすぐ「泣いた」とか言うやつがでてくるが、ああいうやつはだいたいなぜかドヤ顔である。
「〇〇めっちゃ良かった〜わたし泣いた」
「おもろかったっすよ。おれ、泣いたすもん」
信用できない。なにかを褒めるとき簡単に「泣いた」と言ってしまう人を信じられない。
長年抱いていたこの違和感を言語化してみる。

1.
まず第一に、「泣いた」とか言われても、それはお前の涙腺次第やろ、という問題がある。
涙の重みは人によって千差満別だ。転んだだけで泣くやつもいれば、気失っても血反吐吐いても泣かんやつだっている。それに、すぐ「泣いた」とか言ってしまう人間がどれほど涙を軽く価値付けているかは推して知れる。

2.
「泣いた」は作品の面白さを平面化してしまう。
ひとくちに「おもしろい」と言ってもそれは色々ある。声あげて笑えるコメディからマジックのように知的興味をくすぐるもの、人生に啓示的な命題を与えてくれるものまで様々だ。「おもしろさ」には数え切れないベクトルが存在し、そこに奥深さがある。だからこそ、どこがどのように面白かったのかを他人に説明するのは難しいわけだが、それを一言目から「泣いた」で済ませてしまうのはあまりに思慮が浅いと言わざる得ない。
泣けるかどうか、それだけが「おもしろさ」を測る唯一のものさしになってしまっているんじゃないか。

3.
「泣くこと」が目的になっているのがキモイ。
僕たちが映画館に行く理由は「良い映画に出会いたい」からだろう。そうすると、おもしろさのものさしが「泣けるかどうか」になってしまっている人にとっては、映画館に行く理由は≒「泣くため」になる。泣くという行為が目的になってしまっている。
涙は、なにかが起こった〈結果〉として生じるものでなかったか。いつからそれが〈目的〉になったんだ。
いつから自分に嘘をついた、お前ら。

映画みてすぐ「泣いた」とか言うんやめろ。なんでドヤ顔やねん。自分の涙を神聖視すんな。鑑賞者の涙が作品の価値を引き上げることはないんや。おまえが勝手に泣いただけや。と言ってボコボコにしてやりたい。





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