「好き」という神話
まだ自然科学のなかった時代、世界の成り立ちについて語る唯一の手段が神話だったわけだけれども、世界各国のあらゆる神話・宗教が「世界はどのようにして生まれたか」という問いに対して出した答えは3つに大別されると丸山眞男は述べている。
神が宇宙を創造した
神が出産することで宇宙が生まれた
宇宙は植物のように生成した
1は言わずもがな一神教による説明であり、旧約聖書の創世記はまさにこういった説明をしている。
古事記は3に分類されるらしく、2は1と3の中間で多くの多神教文化がこれに該当するとのことらしい。
丸山眞男によるこの分類を応用すれば、文化圏による恋愛観の違いも理解できるんじゃないかと私は思った。
たとえば「愛」という概念は西洋に由来し、とくに新約聖書の影響が大きい。一般語彙として浸透しているものの、歴史的にはまだ日が浅く、日本人にはその本質を理解するのは難しい、というのは所々で為される言説である。私自身、「愛」という言葉は表層のニュアンスでしか掴みどころがなく、こういった言説はかなり説得力があった。
「愛」がキリスト教文化圏の概念ということで1のパターンに当てはめてみると、「愛」はおそらく創造性にまつわる行為だ。ひとりの個人から出発する主体的な行為、というのが「愛」なんじゃないか。
一方で、外国由来の「愛」にしばしば対比させられるのが「好き」という言葉であるが、これを3のパターンに当てはめて考えると、「好き」というのは自然と芽生える感情だ。本人の意思とはあまり関係のないところでいつ間にか育ち、実るものが「好き」なんじゃないか。
手前味噌ではあるが、この説明方法はとても納得がいった。じゃあそれを実生活にどう落とし込むか、というと何も浮かばない。それに、もしこの問いに対して最適解が出せるのなら「愛」の定義が矛盾してしまう。「愛」は主体性が発揮されたときに成立する行為なのだから、ひとりひとりがその時々応じて決断していくしかないのだろう。
私自身は「愛」よりも「好き」の方がいいなと思う。自分でコントロールできない感情こそかけがえないものに思える。感情に振り回されるほうが人間らしくて好きだ。
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