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【ショートショート】彼女の王国

「やっぱりこの家が一番落ち着く」
 と彼女はよく言っていた。この家には彼女の好きな椅子やテーブル、絨緞、ベッドがある。本棚には彼女の好きな作家の本がぎっしりと詰まっている。ベッドの枕元にはいつも、オオハシのぬいぐるみが彼女の帰りを待ち切れないというように、目をキラキラと光らせてちょこんと座っている。

 好きな物に囲まれた彼女の王国。そこに彼女は死んで帰って来た。何度も何度も私や看護師に、家へかえりたい、ここはどこなの? と真白なベッドに横になりながら、必死な目をして訴えていた彼女のその顔が、今でも私の頭から離れない。私は彼女の意思を汲んでやるべきだったのだろうか。今更悩んでも仕方がないが、私は答えが欲しかった。

 二月の深夜。この時期にしては雪も降らず月明かりが障子戸越しに横になった彼女の顔を照らしている。

 月明かりに照らされた彼女の顔はあまりにも綺麗であった。

 今にも起き出して、「なんでこんなに寒いままにしてるの?」と私が怒られそうである。怒ってくれるならどれほど良かったか。弾く人がいなくなった真っ赤なおもちゃのピアノを撫でる。うっすらと埃が積もっていたピアノに指の跡がついた。

 この一つの、動かない物体となってしまった彼女の前に、私はいつまでも、いつまでも立ちつくした。じっと見つめていると、はたしてこれは彼女だろうか、と疑問が私の中にふつふつと湧き上がる。彼女はこの家にかえって来てくれたのだろうか。カタカタと音がする。音の方を見ると、いつの間にか窓が少し開いていた。わずかに開いた隙間から、冷たい風が部屋のなかへ入ってくる。私は窓を丁寧に閉めると、また元の場所へ戻った。彼女はかえって来たのだろうか。私は、かえってこれたのだろうか。

 いつのまにか、葬儀の準備が始まっていた。私も日取りや行程を決めたのだろう。だが記憶がない。化粧をし、着替えをし、棺に納め、花を入れる。

 そうして、私を、私だけを過去に置き去りにしたまま、すべてが勝手に進んでいく。録画したくだらない映画を早送りするように、景色が、人が、うしろへと流れていく。私はその場に立ったまま、その流れる景色を見つめていた。

 会場にはいつの間にか花が飾られ、多くの人が来て、泣きながら写真に合掌していた。お経も読まれていたが、私の耳には入ってこなかった。彼女が聞けない音を聞いても全く意味がない。私は椅子に座ったままその景色を、どこか他人事のように呆然と眺めていた。そして気づいた時にはすでに彼女は骨だけになっていた。

 私は誰も居ない暗い部屋に一人で立っていた。主のいなくなったピアノやぬいぐるみが、暗闇からこちらを眺めている気がする。彼女のお気に入りだった服、気に入っていたお皿、マグカップ。すべて処分したい。そんな衝動に駆られるが、私は手をつけられずにいる。

 カーテンが風にはためいた。

 また、窓が開いているのだろう。私は閉めるために窓へ近づく。外では音もなく雪が降っていた。朝には積もっていそうな、白く重たそうな雪だった。

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