『推しの子』で消費社会を超シンプルに解説する試み【考察】
まず大前提、「消費社会」というテーマの解説に正確さを求めるなら専門知識(ソシュールの『記号論』とか『孤独な群衆』とか『消費社会の神話と構造』とか『監獄の誕生』とかバタイユの『エロティシズム』とか)を押さえることが必須だと思います。
だけど私は簡単に整理したい!
皆さんもシンプルに理解したいですよね?
そのために『推しの子』がめっちゃ最適なテキストなんですよ!
しかも全巻読む必要なし。専門用語は一切なしでアニメの1話だけ見ていればOKです!
(まぁ第1話、テレビアニメなのに90分ありますけど…)
消費社会の「本当」を『推しの子』の大テーマである「嘘」を紐解くことで暴く。
結論
現代とはパッケージ至上主義社会である
○某おしゃれコーヒー割高問題
随分と前の話題にはなりますが、スターバックスコーヒーとセブンイレブンのコーヒーが同じ豆を使用しているというネット記事が1部で注目を集めました。(名前出しましたけどなにか?)
スタバのカップに入ったコーヒー、セブンのカップに入ったコーヒー。
それぞれの中身が実は全く同じなのにも関わらず値段があまりに違い(実際は保存方法などが違うのだそう。他にも席代などが含まれていると思いますが)、割高なスターバックスコーヒーのほうを買うのは一体なぜだろう? という疑問が生まれます。
しかし現代を生きる私たちにはその疑問への答えがパッと思いつきます。
"ブランディング"の違いでしょ?
私もそう思います。
美味しいコーヒーとプラスでおしゃれな"イメージ"が欲しい、というニーズを持った顧客がその"イメージ"の価格が上乗せされた値段に納得して対価を払うわけですね。
でも私に言わせれば上記は本質的な回答ではありません。
私が考えた回答は「パッケージが違うから」です。
次の段落ではアイドルを例に挙げて『パッケージ』という"嘘"に迫ります。
先に次の段落の結論を書きます。
結論
現代の主流の考え方は
「パッケージが違えば中身も違う」
○アイドル引退 人気低迷の理由
なんでそんなことを考察するんだ思われるでしょうが、後々繋がってきますのでよろしくお願いします。
章題についてもちろん業態の構造的な理由も考えられるでしょう。
(グループアイドルであれば他メンバーのファンの目にも触れる機会があることから本人の人気以上の知名度を得やすく、グループとして仕事を経験することもあるでしょう。
となれば必然、卒業後は1人で人気を維持しながら、経験値の少ない別界隈の仕事をしなければなりません。
結果として人気が低迷しやすい構造があるのではないかと思います。これは憶測です。)
ですが今回はテーマに沿って別の理由を考えてみます。
結論から書くと、彼ら彼女らが伸び悩むのは「私たちが彼ら彼女らの『パッケージ』を買っているから」です。
ここからはいくつかアイドルを例に挙げて、それぞれの『パッケージ』を確認します。
例として用いるのは「乃木坂46」「ももいろクローバーZ」「ハロー!プロジェクト(まとめて)」の3つです。
(例はすべて女性アイドルですが理由が3つあります。
まず私が男性アイドルに詳しくないため、この記事の読者さんとのイメージの不一致を避けるためです。
次に女性アイドルの方がイメージのグラデーションが豊かな気がして、内容に適していると考えました。男性の場合はバンドマンという肩書きであってもアイドル的な要素があったりでややこしいというのもあります。
最後は、特に男性、異性をターゲットにしたアイドルを挙げたほうが意外性が出ると思いました)。
まず「乃木坂46」の『パッケージ』、つまり"イメージ"といえば衣装や曲調などから想起される「清楚」であったり、「上品」「キレイ」などでしょう。
「ももいろクローバーZ」はその激しいダンスやキャラクターなどから「元気ハツラツ」「カワイイ」などでしょう。
「ハロー!プロジェクト」はそのダンス、歌唱のレベルの高さなどから「カッコイイ」「プロ意識が高い」といった"イメージ"があると思います。
このように"『パッケージ』によって"それぞれのアイドルはここまで違うものに見えてきます。
ですがよく考えてください。
応募だけでも倍率は何千倍。
同じくオーディションを受けた人たちと比較され、容姿やエンタメの才能などの持って産まれたモノに左右される偶然性を考慮すれば倍率は計り知れません。
そんなオーディションに挑む人ってどんな人ですか?
そんな世界を目指す人ってどんな人ですか?
もしくはそんな世界で生き残ってる人ってどんな人ですか?
そんなのスーパー勝ち気で、人を踏み台にすることに躊躇がない性悪で、とんでもないくらいの野心家に決まってますよ!
そんか勝ち気で性悪で野心家な人々をひとたびアイドルの『パッケージ』に包んでしまえば乃木坂46だと「清楚」に、ももクロだと「元気ハツラツ」に、ハロプロは「プロ意識が高い」のだと信じてしまう(実際にそのイメージ通りの人が1人もいないと言っているわけじゃないです。しかし、自身を包む『パッケージ』に入り込むため、まるで夏服に向けてのダイエットのようにいくらか演技をしている側面は否めません。)
中身は同じはずなのに『パッケージ』が違えばそうは見えなくなる。
前述したコーヒーの事例もこれとまったく同じ現象だと考えられます。
つまり私たちは無意識に「パッケージが違えば中身も違う」と考えているのです。
それほどまでに私たちは『パッケージ』を何よりも信用している(この信用の高さは大量生産システムの発展や法律の整備によって粗さや不正が以前よりもなくなり、商品はきちんとパッケージ通りのものが提供されるようになったことに起因しているのかもしれません)。
むしろ『パッケージ』という外見こそが中身を表しているとさえ信じている節があります。
それはまるで私たちがディズニーランド園内で「ミッキーマウスの着ぐるみ」を「ミッキーマウス」だと信じて、中にいるはずの「汗だくの人間」をいないものとして扱うようなものです。
そしてその信用は人間にさえ適用されてしまうのです("人間"でさえも「商品」と捉えてしまう。もしくは「商品」にしようとする。もっと言い換えるなら"信仰"の対象にしようとする)。
極論、
「人間は見た目が100%」
というキャッチコピーが
"正しい"のが現代なのです。
繰り返しにはなりますがアイドルグループから卒業した彼ら彼女らは『パッケージ』を失い(もう一度、別の『パッケージ』を創造する必要性に迫られ)、「乃木坂46」や「ももクロ」や「ハロプロ」といった『パッケージ』を求めていた顧客のニーズにそぐわなくなった結果、人気が低迷しやすいのです。
素敵な『パッケージ』に包まれていない各々の"人間"に顧客は興味がない。
よく『アイドル』というテーマ、設定を取り扱ったフィクション作品において
「みーんな私のことが好きだけど
誰も"私"を愛してない」
といった状況、セリフが散見されるのはまさに前述の理由からなのです。
○『パッケージ』という「嘘」
ここまで『パッケージ』という言葉を多用しましたが、そもそもイメージとか、ブランドとか、『パッケージ』って本質的には何なのでしょうか。
CM
この商品を買えば生活の質が上がる!
これを買えば高い満足感が!
めっちゃ美味しいです!
これさえあればめっちゃモテるように!
このような『パッケージ』に乗っかっているメッセージは「本当」でしょうか?
端的に言ってしまえば『パッケージ』とは作り話、すなわち「嘘」です。
たしかに生活が楽になったり、美味しくてほっぺが落ちそうになったり、ファッションを褒められたりと『パッケージ』という「嘘」が「本当」になることもあるでしょう。
ここで重要なのは、あくまで本当に"なる"であって、本当"だった"ではないのです。
「箱を開けたら猫は生きていた」のではなく、「箱を開けたら生きている猫が現れた」という理屈をこねる『シュレディンガーの猫』のように、『パッケージ』は"「本当」になる"ものなのです。
だからこそ必死に「嘘」をつき、『パッケージ』を纏い、「本当」を創り出す。
愛されるために。
こういった自己実現を図ろうとしているのがアイだけではないことは現代に生きる私たちには分かり切ったことです。
○余談 〈『金閣寺』との関連性〉
少し余談を書かせてください。
とばしていただいて構いません。
ここまで述べてきた『推しの子』が描く「本当」を創り出すという自己実現の方法論、また問題意識はある種の文学的発見への再挑戦、再解釈だと私は考えています。
またこの方法論を発見し、描き出した文学作品の代表は三島由紀夫『金閣寺』で、その本質を現代語訳すると『推しの子』になると私は考えています。
自己を発見する、つまり「本当」を"発見する"という手間や恐怖を避けて、現実なんかよりも自身が思い描く理想(心象)のほうを重要視し、その理想に近づくことを本懐とする。
その方法論を実践しているであろう現代の事象を挙げるなら、アイドルや、InstagramやX(旧Twitter)などのSNSにおいてのオシャレさ、センスの高さ、有用さ、上流さ、美のアピールが挙げられるでしょう。
他には「推し」に何十万円も貢ぐのも、綻びやすい理想、すなわち『パッケージ』を「本当」に近づけて壊れないようにしたい、失わないようにしたいという願望が隠れているように感じます。
実際に『推しの子』ではアイドルという設定を用いてこの方法論について描いている。
「本当」を発見する手間や恐怖を避けて、と書きましたが、それを避けることがいかに大変なことなのかは現代に生きる私たちには感覚的に分かっていただけるかと思います。
『金閣寺』の主人公はわざわざ金閣寺に放火して自殺するという計画を建てるほどです。
『推しの子』のアイはわざわざ歌とダンスと喋り方と笑顔の作り方と、ファンの名前とエピソードを覚えていた。ルビーとアクアの父親の素性や子供の存在も隠した。
それほどまでの手間を掛けないと理想に手が届かない。
そこまでしないと現代を生きる私たちは自己実現できないのでしょうか?
そこまでして「本当」は避けなければならないものなのでしょうか?
なにか他に手はないのでしょうか?
引き続き、お付き合いいただけますと幸いです。
○「嘘」は"正しい"は「本当」?
「人間は見た目が100%」というキャッチコピーは"正しい"のが現代だと述べましたが、それは言い換えると「嘘」は"正しい"、「嘘」は「本当」という考えが台頭しているのが現代だということです。
(誇張の少ない表現にするなら、「嘘」を信じていたほうが楽しいよね、便利だよねという考えだと言えるでしょう)。
ここまで来るとトンチですね。
ですが私が考えるにこのトンチを用いて自己実現を図るのが現代、消費社会の特徴なのです。ただのトンチとして見過ごすわけにはいきません。
でもトンチ感は否めない。
じつは「嘘」をつき、『パッケージ』を纏い、「本当」を創り出すという方法論には私が考えるに欠点、課題が2つあります。
まずひとつ、創り出したその「本当」を受け入れることが果たして出来るのかという点です。
だってそもそも「本当」を受け入れることができなかったからこそ理想を追ったわけで、もしかしたら恋に恋しているみたいな感じになっているかもしれないし、やっとの思いで「本当」を手に入れた時には理想が膨らんでいて「こんなの違う!」とその「本当」を投げ捨てちゃうかもしれない。
こうなってしまえば本末転倒です。
結局、自己実現は叶わず、ただ理想を追い求めて苦心し、焦燥に駆られるだけです。
ですが『推しの子』アニメ第1話のアイは自己実現が叶った様子。
ここで皆さんに質問です。
この顔は「本当」だと思いますか?
私には到底、この表情が「本当」だとは思えないのです。
この表情はアイではなくて、"アイドル"の笑顔そのものじゃあないですか!?
結局、自己実現は叶ったのかどうか。
「本当」を受け入れることができたのか。
その問いにアイの笑顔は答えを出してはくれません。
しかも「えっと あとは… あっ これは言わなきゃ」とまるで取って付けたかのように、台本のセリフを思い出したかのように「愛してる」と言い放つ。嘘っぽいよ…。
話を戻しますが、「嘘」をつき、『パッケージ』を纏い、「本当」を創り出すという方法論のふたつめの欠点は、他人から見たときに全くもってその自己実現が「本当」か分からないという点です。
それの何が問題か。
それは私たちが創り出した『パッケージ』のその不確かさ・曖昧さのせいで、仮に私たちがどれだけ自然体でインスタにおしゃれな生活を投稿したとしても「無理してる」「笑顔が引きつってる」「そんなの本当の幸せじゃないよ」といった具合で、私たちの「本当」が疑われてしまうということが問題なのです。
「けど他人の言葉なんて
気にしなきゃいいじゃん!」
なんて甘い!!
アマーーーーイ!!!
自分の理想、つまり「嘘」を「本当」にする近道はSNSを使ってより多くの他者の目でその「嘘」を「本当」だと認識してもらうことなのです!
(孤独に理想を求める、深めるというのはこんなにもSNSが発達した社会では無理難題でしょう。
私だって孤独に本を読んだ時間を取り返そうとするかのようにこの記事を投稿しているわけですし……。)
この「本当」を創り出すという自己実現の方法論は、とてもSNSとの相性が良いため誰でも簡単に行うことができるのは大きなメリットでしょう。
ただその反面、あまりに多くの他人に審査されてしまう性質から「嘘」は「本当」にしづらく、昨日は褒めてもらえたのに今日は罵詈雑言を浴びるなどで矛盾を感じてしまい、せっかくの自己実現が簡単に揺らいでしまうという非常に重大な欠点があるのです。
まさにアイの死に顔はその象徴です。
その表情が「本当」なのか「嘘」なのか、他人である私には判別できないのです。
仮にアクアが私と同様にアイの死に顔を見て、「本当」か「嘘」かが分からなかったとしたなら愕然としたはずです。
だってそこにあったのは自己実現した人間の顔ではなく、母親でもなく、アイでもなく、"アイドル 星野アイ"という『パッケージ』を被ったかのような笑顔だったからです。
あまりに『パッケージ』に囲まれているのが当たり前な現代社会に生きる私たちは、アイドルではない人、『パッケージ』に包まれていないはずの人間ですらまるで"アイドル"かのように不可思議な存在としてしか認識できなくなっているのです。
だからこそアクアやルビーの物語が動き出すわけですが、果たして2人の物語、『推しの子』はこの答えを出してくれるのでしょうか?
物語の結末に要注目です!
○まとめ
さてさて消費社会のシンプルに解説する試みから始まって、なんとか予告通りに『推しの子』の話へ移行することができました。
私としては結構、出来の良い記事が書けたかと思います。
感想はこれくらいで箇条書きで本記事の内容をまとめます。
コーヒーやアイドルを中身が同じなのに同じじゃないと感じるのは現代消費社会の主流の考え方が「パッケージが違えば中身も違う」だから
極論、「人間は見た目が100%」というキャッチコピーが"正しい"のが現代
InstagramerやTikTokerは「嘘」をつき、『パッケージ』を纏い、「本当」を創り出すことで自己実現を図っている
理想の「本当」を創り出すという自己実現の方法論には①創り出した「本当」を受け入れることができるのか②その自己実現が「本当」か他人からは分からず、疑いの目を向けられて簡単に「本当」が綻ぶ、という欠点がある
これで本記事は以上です。
すみません。
前述した欠点への回答を『推しの子』が出してくれるまでまだ掛かりそうなのでこの辺で終わりとさせていただきます。
ただ余談でも少し触れた『金閣寺』の解釈がこの記事を書いているうちに深まったので、もしかしたら別記事で『金閣寺』を軸にそこのところ深掘りするかもしれません。
皆さん、お体にご自愛ください。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
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