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「これはゲームなのか?展」に行ってきたら、日常がゲームになった

私たちの毎日は、ルールでいっぱいだ。

朝起きたら、顔を洗って歯を磨かねばならない。
服に着替えて、会社に行かねばならない。
女性は化粧をせねばならない。
仕事中は集中しなくてはならない。
栄養バランスの整った食事をとらねばならない。
翌日のために、夜は休息をとらねばならない。

人によって微差はあるだろうが、私たちはそんな無数のルールに従って日々を過ごしている。

ルールのある毎日はとても楽ちんで、けれど少し味気ない。時にがんじがらめにされすぎて、窮屈さを感じることさえある。

……と、思っていたのだ、その場所にいくまでは

そこはルールに溢れた空間で、

しかし訪れた人たちは皆嬉々としてそのルールに従う。それはそれは楽しそうに。

赤子連れで、夫婦そろって馳せ参じた展覧会。
「これはゲームなのか?展」の会場のことである。

***

会場にはそこかしこに、ありとあらゆる「ゲームらしきもの」が置かれていた。
訪れた人たちは、それらでこころゆくまで自由に遊んでいいことになっている。

とはいえ、ここにはいわゆるわかりやすい「ゲーム」は一つもなかった。

たとえばある場所には、ほうきとちりとりとゴミ箱、数枚の葉っぱが置いてあった。
ルール説明には、「ほうきで葉っぱをちりとりにのせ、ゴミ箱にこぼれないように入れればクリア」というようなことが書かれている。
まごうことなき、掃除。
でも、ルールがあって、それを解説する説明書があって、コンポーネント(ゲームに使用する内容物)もそろっているそれは、紛れもなくゲームの姿をしている。

またある場所には、レバーを回せば「ルールのたまご」が出てくるというガチャポンが置いてあったので、100円入れて一回まわしてみた。
中の紙に書かれていたのは「誰かがくしゃみをしたら、その人以外の全員がティッシュを手渡す早さを競う」というルール。
それは多分、親切
だけど、「競争」と「勝敗」というルールを付け加えられたそれは、もはや単なる親切とは呼べない行為に変貌してしまっている。

私が気に入って、何度も何度も動かしていた展示物の名前は、「幽霊」といった。
それは透明な三角コーンであり、誰もが自由に会場内のあちらこちらへ移動させて良いことになっている。見つけると一瞬「あれ、ここは入っちゃいけない場所なのかな」という気持ちにさせられるのだが、それこそがワナであり、ひいては誰かを勝利させてしまったこととなる。
このゲームの肝は「赤い三角コーンは立ち入り禁止の目印」という、皆の中に刷り込まれている共通のルールを呼び起こさせることにあるからだ。
もちろん、透明のコーンが置いてある場所は立ち入り禁止でも何でもない。ルールを勘違いしてしまうことが「負け」なのだと、私は解釈した(間違っていたらすみません)。

「これはゲームなのか?」

と展覧会の名前と同じ問いを投げかけたら、十中八九の人は一瞬だまって少し考えて、それから「ゲームかもしれない」と答えるんじゃないかと思う。何故ならそこにはルールがあって、ルールに従いさえすれば楽しい遊びとなる様々な「もの」がある。
では何故大手を振って自信満々に「それはゲームだ」と言えないのかというと、それらの「もの」は、私たちの日常にあふれている「もの」、そのものだからだ。

日常は退屈。だけどゲームは面白い。

そう思い込んでいる私たちにとって、突き付けられた矛盾は、これからの人生の見方さえも変えてしまうくらい、大きいものなのかもしれなかった。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないけれど。

***

この展示会の真骨頂ともいえるゲームが
「一年生ゲーム」
というものだった。
ルールはこちらのノートに詳しい(読んで考えさせられる問いがたくさんあるので、ぜひ読んでほしいです)。

このゲームに参加した人のうち、二人の人にとっては、このnoteはちょっとしたネタバレ(?)になってしまうかもしれないのだが、そんな偶然はないと思い、おそるおそる書いてみる。

このゲームで自分が設定するルールは三つ。自分に課されるルールも三つ。
自分の得点になるのは、名前も知れない誰かが従ってくれる前者だが、私が日々気にしながら生きなければならないルールは後者の方だ。

私は三つのルールのうち一つを、深く考えず、「両親のどちらかに電話したら1点」とした。残りの二つも、人間関係にまつわるようなルールを考え、箱の中にしまった。

展示会を後にしてから、自分の箱をそっと開けてみた。ゲームのルール通りに、三枚の「ルールが書かれた紙」が入っている。
そしてその一枚目には「おいしいパンを食べたら1点」とあった。

それを見た瞬間、思ったのだ。
私はこれから1年間を、おいしいパンを意識しながら過ごすことになるのだと。
そして同じように、私が書いたルールを受け取った誰かさんは、これから1年をやたらと両親へ電話する1年として過ごすのだろう、とも。

私はこれまで、そんなに美味しいパンにこだわるタイプではなかった。なんなら食パンを買うときはスーパーで一番安いものを選んでいたし、自分でパン屋に行くことはほとんどなく、母が買ったパンをおすそわけしてもらって生きてきた。
しかしこれからは違う。どこかに遊びに行くときは必ずおいしいパン屋を探すだろうし、家の周りのパン屋のパンは余すことなく食べてみるだろう。
それが自分の得点になるわけではないと知っているものの、私の日常そのものがゲームになったという事実が、私を動かしていくに違いないのだ。

***

私たちの日常は、ルールでいっぱいだ。

だけどそのルールは私たちをがんじがらめにするものなのか、それとも私たちの日常をゲームにするものなのか、そのどちらを選ぶかによって、人生というものの楽しさは大きく変わっていく。

まさに、

おもしろき
こともなき世を
おもしろく
すみなしものは
わがみなりけり

だ。

***

今日の夜、息子をお風呂に入れながら、ふとこんなことを考えた。

◆息子を無事に風呂に入れられれば10点。
◆触ってほしくないもの(大人のシャンプーやカラン・シャワーを入れ替えるレバーなど)を触られたら-1点。
◆息子が泣いたら-3点。

本日の合計得点は、7点だった。

日常はなんでもゲームになる……のかもしれない。

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