あるベテラン教授のこと
30年近くも前のことなので、少し書いてみようと思う。筆者は、とある私立大学をなんとか卒業したところであった。それ自体は悪いことではない。だが筆者はウツや不安が強く、到底「就職どころではない」状態だった。ただ当時、そういう主張は周囲にまったく受け入れられない。仕方なく自分は大学に居座って講義を受け、知識欲だけでも慰めることにした。私と外界をつなぐルートは、当時それぐらいしかなかったのである。
そんな折、新しくよその大学から、あるベテランの教授が来られることになった。有名な方だと存じ上げてはいたものの、教授の著作には聞いたことのない専門用語も多い。大学を出たばかりのヒヨッコである筆者は、まだほとんど読めていなかった。とはいえ、教授の講義で取ったノートは今でも全て保存してある。最初の講義がとりわけ印象的だったのは、それまで聴いた授業とまるで毛色が違ったからであった。講義が終わると私はスタスタとご本人の前まで行き、その旨を申し上げた。だが態度も言い方も不躾だったのだろう、教授はお怒りになった。
お忙しい教授のお説教は、移動を兼ねてだった。講義室から階段を下りて、一緒に一階の出口に来るまで続いたのである。対人距離がつかめない筆者には、こういうトラブルは多い。とはいうものの、内心冷や汗をかいていた。何十年も経って、教授を知る人に「あの先生は怒りっぽいですよ」と言われてホッとしたぐらいである。だが教授は「学生のためを思って」などではなく、本気でお怒りだったのではなかろうか。私にも短気なところがあって、自分でもどうにもならなくなるからよく分かる。とはいえ赴任した初日に、そんな目に遭われたわけだ。少なくとも教授にとって、印象的な出来事ではあっただろう。
私は次からも、懲りもせず講義に出席した。出ると決めた講義は、一度も欠席しなかったからである。そして、よく質問をした。授業の合間に「先生のご著書のうち、主要なものはどれですか」と尋ねると、教授はいくつか書名を挙げられた。「この◯◯◯というタイトルは△△△という意味ですか」と聞くと、「そうです」と仰ったのを覚えている。当時のご自分の最重要著作として、ある本を挙げられた折には、「この本は僕が書いた中でもいちばん、素っ頓狂だね」とも仰った。
筆者の毎度の質問は、少々しつこかったのであろう。何度目かに教授は、筆者をあしらうように足早に去っていかれた。しかし今回指摘した箇所には、確かに教授の間違いがある。筆者はもう一度そのことを確認すると再び教授の元へ行き、めっぽう大きな本をお見せして言った。「先生、このページの最後の行をご覧ください」。ここで教授はオヤ、と思われたようである。そして改めてそのページを確認すると、教授が講義で使われた専門用語には筆者の指摘どおり(ごく些細な)ミスが見つかったのだ。教授は次の講義で「前回の講義で間違いがありました」と仰ると、その誤りをきちんと訂正された。教授はこの頃から筆者のパーソナリティについて、だいたいの見当をつけていらしたのではないだろうか。最近分かったことだが、教授は私生活において筆者と類似の経験をお持ちだったし、またお生まれになった環境も筆者のそれとよく似ていたからである。
ウツや不安が強かった筆者は、それからもよく大学構内で独り読書をしていた。いま考えると、いつも少し離れて教授の姿があった。あれは、見守って下さっていたのではなかったか。偶然を装ってだったのだろう、お菓子を下さったことも複数回あった。折しも日本は、大きな災害に見舞われていた。教授は、そうした災害に関するある外国の書物を日本に紹介せんと、翻訳の作業をされていた。その書物自体も、しばらくして国内で出版された教授による翻訳も、どちらも金字塔である。その本の対象は、教授ご自身や、筆者のような人間たちである。教授の諸講義のみならず、遺された様々な研究のお陰で筆者が生き延びていると言って過言でない。
教授が鬼籍に入られたのは最近のことであるが、筆者としては今でも浅からぬご縁を感じている。お話ししていて一番嬉しかったことを記すと、それは教授が筆者のことを何げなく「よく知ってるね」と仰ったことである。「よく知ってるねえ、よく知っている」。それはおそらく、「二十歳そこそことしては」ほどの意味だったのだろう。だが博覧強記の大学者に少しでもそう言って頂けるのは、身に余る光栄である。教授、大変お世話になりました。心よりご冥福をお祈りいたします。
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