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夜明けの空と町に知る -尾道② 古寺と千光寺公園-

(旅ノート1冊目より、2011年2月6日 早朝)

古寺をめぐる。
路地、家々の中を通り抜け、いくつもの古寺がふいに姿を現す。
古(いにしえ)が今の民の暮らしに溶け込み、淡々と建っている。
脇道から寺に入り、正門まで歩くと、眼下に尾道の街が広がった。
明けたばかりの太陽の光が、空に薄紫の絹のような朝焼けをつくり、街は朝靄にうっすらとかすんでいる。
時折車や電車の音が通り過ぎ、その間も、背中の方から鳥やカラスが澄んで抜けるような声で鳴く。

寺には、墓が多い。古びた寺と、新旧様々な墓が、寄り添うように立ち並び、民家の中に点在している。
古(いにしえ)と、死者と、生きている、と思う。
おそらく昔は普通にされていたことなのだ。
墓は恐れるものではない。
守り、慕い、共に生きるものなのだ、本来は。
カラスがいい声で鳴いている。

路地を抜け、石段を登り、高台にある千光寺公園へ辿り着く。
思わずため息が漏れた。
時刻は7:30。
昇った太陽が、冬の薄い雲に覆われ、オレンジ色にほんのり光り、空を淡い虹色に染めている。眼下には、白くかすむ街がよく見える。
モネの「夜明け※」を思い出す。(※おそらく「印象・日の出」のこと)
すべてが淡く、どこか青白い。
冬だからか、ぱっとする色は太陽のオレンジだけだ。
白青と橙がまざりあい、えもいわれぬ色を作り出す。

やはり太陽は美しい、と思う。
私たちがどうあがいても逃げることはできない。だからこそ、私たちのすべてを仏の如く知り、認め、受け入れ、ただ沈黙のうちに見守っているような表情をする。
決して打ち勝てない存在があると実感すると、少々悔しく、しかしどこか気が抜けてすぽんとすがすがしい。
このような感情を、人に対しても抱けるようになれば、私も少しは大人になるのかもしれない。
今の私は、例えるなら、この千光寺公園を探して路地を迷い走る、青二才の青年のようなものかもしれない。


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最後までお読み頂きありがとうございます。
かなり昔に書いた駄文ですので、稚拙な表現も多く、読みづらい部分もあったかと思いますが、
当時の感性やその土地の臨場感をなるべく忠実に再現できるよう、あえて手を入れずに書き起こしています。何卒ご理解いただけますと幸いです。

最後まで読んでくださってありがとうございます。 わずかでも、誰かの心の底に届くものが書けたらいいなあと願いつつ、プロを目指して日々精進中の作家の卵です。 もしも価値のある読み物だと感じたら、大変励みになりますので、ご支援の程よろしくお願い致します。