なぜ(同じ)信仰の者同士が争うのか

この仕事をしていると、必ず言われることがある。
「同じ宗教を信じている人同士なのに、なぜ争うのか」

わたし個人への批判や、一般的に教会内で諍いが絶えないことへの批判のときもあれば、もっと世界情勢的な、歴史上の教会分裂にまつわる話のこともある。いずれにせよ批判する人が前提としているのは、宗教というのは平和を愛する信念の体系であり、それを信じるからには誰とでも(可能な限り)仲良くできるはずだ、ということである。

話を身近なことに絞ってみる。わたしは『機動戦士ガンダム』のシリーズが好きである。そして新シリーズが出るたびに観るようにしている。どの作品もそれぞれに面白いと思うが、なかには「これは作り手も持て余したんだろうな」と感じる作品もある。そして、これが大事なことだが、その同じ作品を「すごく面白い!これを待っていたんだ!」と思っている人もいるだろうということである。

わたしが子どもの頃はインターネットなどなかったので、作品の感想を言いあうのはせいぜい身近な友人たち同士であった。それでも「あれは面白いね」「ええ!あんなの面白い?つまらないよ!」と、喧嘩になってしまうこともしばしばあった。こちらがつまらないと思っており、相手が面白いと思っているときは、まだ譲歩ができる。「ああごめん、言い過ぎた」みたいに。だがこちらがすごく思い入れをもった作品を「つまらない」と一蹴されたり、想い出のシーンを「もうちょっとこう演出して欲しかった」みたいに批判されると、とたんに苛立ってしまう。放っておけばいいのに、ムキになって反論してしまうのだ。

日本人は議論が下手だとよく言われる。議論の中身と、議論する人格とを分けて考えることができないからであると。もちろん、そういう指摘に一定の正しさはあるのだろう。だが、自分がものすごく大切にしている、自分にとって深い価値を放っているものを、他人から「あれはこういうところがおかしい」と言われたとしたら。生理的に湧きあがってくる怒りを「分けて考える」ことは、なかなかに難しい。

ガンダムの話をしたが、ガンダムは趣味だと言える。そして宗教について言うならば、それを信仰している人にとっては、その宗教の示す世界がその人の生きる五感そのものである。議論の際に、意見と意見を語る人格とを分けるというけれども、信仰に関して言うならば、信仰によって語られる言葉と、信仰者の人格とを分けることは不可能に近い。なぜなら、その人の人格が多分に、その信仰によって培われているからだ。

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