なぜセクハラをするのは若者よりおっさんなのか

わたしは、セクシャルハラスメントを自分ごととして考えている。倫理的に潔白でありたいからではない。いかにも自分がやりそうで、そのことが怖いからである。わたしも50歳を過ぎた。人生の折り返しを過ぎて、白髪も増え、頭の毛も薄くなり、加齢を感じる。それなのに、性的欲望は若い頃よりも強い気がしてならない。だから、中高年男性が起こす性的不祥事を他人事とは思えないのである。

なぜ、性的な不祥事は「おっさん」に多いのか。もちろん暴行や窃視など、若者もする性犯罪は数多くある。しかしセクシャルハラスメントについていえば、40代以上の男性に多いのではないか。統計を見たわけではないので断言はできないが、ハラスメントという語の意味あいからしてそう思う。

なぜなら、若者は職場等において仕事を覚えることに必死で、権力など持ってはいないからである。あるていど仕事が落ち着き、それなりの地位も確保し、生活が安定してきたところに「魔」が差す。職場に、たとえば若い女性がいたとする(なぜ「若い」にこだわるのかは先の記事を参照)。その女性が笑顔で溌溂とあいさつしてくる。プライベートではそのような女性から話しかけられることなどあり得ない、そういう女性が、である。

年齢を自覚することは、とても難しい。ふだんから身体を酷使する仕事をしているなら、加齢とともに体力の衰えを痛感するかもしれない。だが、権力を持つ男性はデスクワークが多い。デスクワークもへとへとに疲れるのだが、肉体労働による身体の疲労とは質が異なる。肉体労働よりも加齢すなわち老い衰えを痛感する機会は少ないだろう。心理的な実感としては、自分はいつまでも若い。それは、さまざまな中年男性のXのポストを読んでいても分かる。遠く過ぎ去った青春時代の思い出を、思い出であるという自覚すらなく、昨日今日の出来事のように語る人は後を絶たない。

話を戻す。そういう男性が職場で、若い女性と遭遇する。彼女はあくまで職業として会釈を向けてくるのである。だがそのとき、自分が彼女の親ほど離れた年齢であることを忘れる男性が、おそらく一定数いる。もちろん、それらの男性すべてがセクシャルハラスメントをするわけではない。かなり人は、それでも自制/自省を働かせることができる。だが、そのなかにあって、残り僅かの者は───

わたしは牧師である。それも、民家ほどの大きさの、ごくごく小さな教会の牧師である。礼拝に来る人の数も、たいていは10人に満たない。それでも、こんなわたしでさえ「先生」と呼ばれる。また、わたしのXでの書き込みに興味を持ち、相談に来る人も、わずかながらいる。そのとき、相談者とわたしとのあいだには、明らかな権力関係が生じる。わたしにとって教会はホームグラウンドであり、相談者はなんらかの安心を渇き求めて教会に来る以上、わたしがその安心を保持する権力者と映る。わたしが「先生」と呼ばれるのは、このような権力関係を反映してのことである。ときおり、「わたしを『先生』と呼ばないでください」と語る牧師もいる。そういう牧師は、この権力関係を自覚しているからそのように語るのであろう。もしそうでなければ、「先生」という呼称が持つ暴力性から逃げているに過ぎない。

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