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わたしもルソーかもしれない
「思想家」という肩書きがある。
わたしが知っている人だと、ルソーとかカントとか。最近の流行りでいうとアドラーもそうなるのかな、あの人は心理学者で収まるのだろうか。
わたしの知人だと、一人も居ない。(「知っている人」と「知人」の言葉の間にはとても薄く、しかしはっきりと境界があることに気付く)
わたしは会社員で、友人の多くも会社員。公務員(教諭も含む)、学生、看護師…。もう少し広げると、銀行務めやメーカー務めなど業種が特定されたり、あとはアーティスト、料理人、なんて人もいる。
「信念」や「信条」と呼ばれるものがある。
わたしが思い出せる有名なところだと
天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず 福沢諭吉
Always give it.
When doing that, people would give it to you.
(常に与えなさい、さすれば人々はあなたに与えるでしょう) イエス・キリスト
自分が存在する上で大切にしている思想や姿勢のことを示す言葉だ。
わたしの「信念」ってなんだ。
大切にしている考え方(米粒残せば 目が潰れる、とか)は確かにある。
何かしらの山を超えると学びがある。が、誰かが言っていたことが大半である。
例えば、一昨日更新を途絶えてしまった時に
「続けることに躍起になり、自分の気持ちのケアを怠っては元も子もない。」
と実感したが、そんなことは随分前になにかの本で知っていた。
途端に、わたしがいま大切にしたいことたちがどれもこれも他人から借りてきたものばかりに見えてきて、情けなくなってきて、ちょっとお手洗いに閉じこもりたくなってきた。
そういうことで、便器に腰掛けて、服も降ろさず(もしものために本当は降ろしておいたほうが良いけど)考えてみた。
そしたら、ちょっとわかってしまった。
この世にあふれている思想は、大概誰かがすでに言ったことである。
大切なのは誰が発言したかではなく、それが本当に自分のものであるかどうか。
わたしが、信じるか。
わたしが、信じ続けるのか。
わたしが、言い続けるのか。
思想とわたしの、関係性。
その時自分が抱えている思想を、しっかりと自分の脚で大地に立ち、信じるられることが尊い。
「自分の発言に責任を持て」なんて時々言われるが、思想や考え方が変化しないことに価値があるわけでない。その時、その一瞬の、思想とわたしの関係性に責任を持てることに価値がある。
だから、もちろん、その思想に違和感を持ったときには手放せばいい。
その日その時までは、本当に信じて言い続けていた。
その日その時になって、お別れが来ただけの話。
こういうことを、「信念」や「信条」というのではないか。
ルソーたちは、偶然時代の流れに合った己の「信念」を・タイミング良く・大きな声で発信して、世界的に「思想家」とされただけのこと。
わたしは米粒残すと目が潰れる「信念」を持った「思想家」である。サラリーマンがよくいる定食屋でおなかが膨れれば信条を手放してごはんを残す程度だけれど。
さて。
お手洗いから出る。
この度は読んでくださって、ありがとうございます。 わたしの言葉がどこかにいるあなたへと届いていること、嬉しく思います。