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いちばんたいせつなことは、目に見えない。

このnoteを更新するまでに、だいぶ時間がかかってしまった。この半年間ほどの間に、転職をして、さらに東京から関西へ引越しをした。そして世の中も大きく変わった。私は完全在宅で仕事をするようになり、自分なりのリズムを掴んできた。半年間もかかったけど、今が一番安定しているように思う。
今日は文化の日ということで、この1年間くらい、温めていたことを書こうと思う。あまり上手に書けないかもしれないけど、お付き合いいただけると嬉しいです。

いつも見守ってくれていた。そこにあるのが当たり前だった存在。

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私は、沖縄県の首里の出身だ。
小学3年生までは、父の仕事の都合で県外に住んでいたが、残りの小学生時代は、この立派な赤い建物を毎日見て育った。

一番近い小学校だったこともあり、放課後は城の敷地内で遊びながら帰宅し、図工の時間は毎年画用紙いっぱいに絵を描いた。毎年「首里城の絵コンクール」というのが地元で開催され、そのコンクールに参加するのが首里っ子の義務のようなものだった。5年生の頃、絵が入賞したときはとても嬉しかった。絵が得意でない私が入賞できたのは、この時だけだったと思う。
毎年文化の日には、子供会のエイサーをしながら首里城を目指して城下町を練り歩いた。
中学生、高校生になると足を運ぶことは減ったものの、相変わらずそこにある存在。いつも首里の人たちを見守ってくれていた。

2019年の10月31日に、家族からのLINEで火災を知った。母が撮影したという動画を見ても、信じられなかった。でも、言いようのない悲しみがこみ上げてきて、早朝から泣いた。なんとか身支度をして、家を出る頃には涙は収まったけど、塞ぎ込んだ気持ちのまま、会社に行ったのを昨日のことのように覚えている。仕事を終え帰る電車の中で、ネットニュースで記事をいくつも見て、やっとこれは本当のことなんだと思った。

無くなって初めて、大切な存在だったんだと知った。

きつねが星の王子さまに言ったこと

火災から何日か経った頃、ふとした時にこの言葉を思い出した。
「いちばんたいせつなことは、目に見えない」
一度は聞いたことがあるかもしれません。サン=テグジュペリの『星の王子さま』で、キツネが王子さまに言った言葉。王子さまは、バラがいなくなってから、そのバラが王子さまにとってかけがえのない存在だったことに気づく。

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私は火災で焼失したことによって、首里城という存在の大切さに初めて気づいた。目に見えなくなってから、本当に大切だとわかった。

消失した日、亡くなった祖母のことを思い出していた。空の上からこのことを知ってどう思っているんだろう。悲しいよね。泣いていないだろうか…。それを想像すると、またさらに胸が痛い。

でも、ふと思った。首里城は1945年、第二次世界大戦の時にも一度全焼している。そして40年以上かけて再建した。その長い再建の歴史を、首里でずっと生きていた祖母たちは近くで見ていた。
だから、もし祖母が生きていたら、悲しんだ後にこう言うのではないかと思った。
「大丈夫。首里城は再建するよ。ほら一緒にうーとーとー(手を合わせてお祈りすること)しなさい」と。

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今年3月に首里城を訪れ、復旧作業を塀の外から眺めていた。
焼け落ちた瓦がきれいに積み重なっているのを見た。その時に、元どおりには戻れないかもしれないけど、ここには確かに琉球という文化が根を張って、また生きようとしていることを感じた。この瓦たちが、きっと、また首里の空を朱く彩ってくれる。

首里城火災が教えてくれたぬちぐすい

あの日から1年たった今も悲しさはなくならないけれど、心の中では首里城はちゃんと存在しているし、また必ず再建してくれると信じられるようになった。
そう信じられるのも、一緒に悲しんでくれる家族や友達が近くにいて、多額の支援をしてくれる多くの人々がいて、今も調査や復旧工事に毎日汗を流している方が同じ空の下にいることをこの1年の間に知ることができたから。

首里城が教えてくれたぬちぐすい(命の薬)は「祈り」だ。
信じて、うーとーとーすること。

また、この目であの赤い立派な建物を見れる日がきますように。そして首里の人の笑顔が見られますように。一緒にうーとーとーしましょ。

首里城の再建の基金URLを貼っておきます。支援すると首里城再建、美術工芸品の復元のための財源になります。


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